「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

非リア充のバイブル『桐島、部活やめるってよ』

第36回日本アカデミー賞最優秀作品賞を取り、原作者の朝井リョウが他の作品で直木賞を受賞したので、何かと話題の映画です。今、大注目の若手女優、橋本愛も出てるし、男をとりこにするキャンキャンモデルの山本美月も出ています。男は必見です。

キャストも凄いが、内容も素晴らしかったです。 舞台は田舎の高校。大学進学率が以上に高いとか、めちゃくちゃ強い部活があるとか、そんな特殊な学校ではなく、どこにでもある普通の学力と普通の課外活動をして、普通の卒業生を輩出する普通の高校です。そんなどこにもである高校にも、学年の中にはヒエラルキーが存在します。運動部のキャプテンを中心とする、長身でイケメンぞろいの男子グループと、超絶可愛い女の子を取り囲む女子グループ。彼らはいつでもクラスの中心。どんな行事でも目立ってしまうのです。

主人公は、このグループには属さない映画部の男の子です。学年ヒエラルキーの最底辺にいるぱっとしない男達だけで気持ち悪い映画を撮っているグループです。

物語は、中心グループのリーダー桐島が部活を辞める、という些細な事件を中心として、その周縁を細やかに描いています。

中心グループの男が部活や学校に来ないというだけで、学校中、その話題で持ち切り。みんながみんな桐島の話ばっかり。主人公達はただ自分の好きなホラー映画を撮影しようと奮闘するのですが、中心グループや中心グループに恋する女子に邪見に扱われて、学校内で自分の思い描いている画を撮ることができない。絵に描いた様な青春をばく進する中心グループと邪見に扱われ全く日の目をみない周縁グループ。絶対に交わる事のない彼らが空間を共にする時、奇跡の扉が開くのです。

この映画を見て、中心グループの方に感情移入できる人も居るのでしょう。でも、私は完全に周縁グループにいた人間なので、どうしても主人公達に共感してしまいます。イケメングループは手を濡らしたまま教室に入ってきても女子に水滴をかけたりして盛り上がれるのに、自分たちは手を濡らしたままだとキモがられる。体育のチーム分けでは最後に余る。リア充達が非リア充の行動を掌握し、指図する時間。それが体育。これほど惨めなときはありません。同じ人間なのに、自分たちは彼らに影響力を行使する事は出来ない。当然、女の子は自分には全く興味がない。自分の好きな女の子は彼らばかり観ている。なんて理不尽なんだ、この世界は。こんちくしょう。

と腐っていた中学高校。大学になるとみんな価値観が多様化してくるので、顔がカッコいいとか運動が出来るとかあんまり関係なくなりとても居心地が良くなりました。話が面白いとか誰も知らない事に詳しいとか、何かで自分の存在感を示す事ができます。容姿と運動によってモテ非モテが再分配不可能な形で線引きされた世界、それが中高でした。だから、私は『桐島、部活やめるってよ』を観ても高校に戻りたいとは思わない。でも『横道世之介』を観ると大学時代に戻りたくなる。

何だか胸くそ悪いなと思い映画を見終えたのですが、ちょっと考えてみると、この主人公は私のように全く腐っていませんでした。彼は自分の好きな映画の世界をまっすぐに見据えていました。モテるとかモテないとか関係ない。自分が大好きな映画の世界と繋がっている様な感覚。その一瞬にすべてをかけて邁進していました。

そこで気づきました。中学高校と、一元的な価値観で世界を二分化していたのは、他でもない、私自身だったのです。顔が良い、スタイルが良い、運動が出来る、するとモテる。モテることが全て。モテない人生はクソ。と勝手に線引きしていたのは私だったのです。

中心グループの人達は、中心周縁で線引きなんかする必要ありません。当然の様に中心である人生を所与として楽しみます。そんな線引きをするのは、いつも周縁の人間なのかもしれない。

だから、自分が周縁だと思っている人。あなたがなぜ周縁なのか。それはあなたが周縁になるようにあなたが線引きしているからです。あなたが意識しないで当然のように行っていることに関してはあなたが中心なのです。だから、腐ることないんですよ。

と高校のときの自分に言ってあげたくなりました。 まぁ体育のチーム分けは逃れられないけどw