「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

名前を付けましょう

はてな村界隈で”ブロガー”と”メディアクリエイター”論争が盛り上がっています。

メディアクリエイター否定派のおっさんたちに聞いてほしい話 - 半径3メートルの社会 若いの、そこは私達が十年以上前に通った道だ 愛のままにわがままに僕はメディアクリエイターを名乗る君だけを傷つけない。

ブロガーをダサいと言いメディアクリエイターと名乗りたがる若者VS「威勢がいいねぇ」でも世の中そんなに甘くねえぞという年長者の図式です。

私のこの論争の輪の中に入りたい。そしてカテゴライズされ何か名づけられたい。「君はおっさんブロガーね」とか「まだぎりぎり若者でメディアクリエイターね」とか。

実はこの論争はかなり大きなテーマが奥に潜んでいるような気がします。ブロガーだろうがメディアクリエイターだろうが、どっちでも良いよというお話ではないのです。例を挙げます。クジラとイルカという生物は言葉が出来たことにより生まれました。元々「クジラ」という固有の生物と「イルカ」という固有の生物が誕生したわけじゃない。なんとなく大きいものをクジラ、小さいものをイルカと定義したことによって、我々の世界に一つの境界線が生まれ、差異が生まれ、意味が生まれたのです。この世のあらゆるものがそうです。クジラとイルカ、ボノボと人間、わたしとあなた、おすぎとピーコ、Chage&ASKA、差異は元々があった訳ではなくて、私たちがそれぞれの間に境界線を引くことによってこの世界を理解しているに過ぎないのです。よく言うたとえで「エスキモーには白が数十種類ある」というお話の通り、この世界は分節する言葉によって見え方がくるくる変化していくものなのです。20年前に「SMAP5人の違いが分からない」と言っていたオジサンオバサンをバカにしていた人たちも今ではセクシーゾーンとキスマイフットの違いが分かるまい。ある人にとって見える境界線は、ある人にとっては見えない。でも、それを名づけ、名乗り、分断することによって、ようやく世界は認識されるのです。

だからブロガーとメディアクリエイターを分断する影響は大きくある。別にメディアクリエイターでなくて”7つの性病を持つ男”でも”舐め達磨大明神”でも良い。でも、そうやって世界を分断した基準は何なのか、差異がどこに向かっているのか(これを差異の指向性と呼ぼう)が重要。クジラとイルカの差異の指向性は”体の大きさ”だ。Chage&ASKAの差異の指向性は”サングラスの有無”だ。(私はChage&ASKAの大ファンであって決してバカにしている訳ではありません。分かりやすい例です。あしからず)

ではブロガーとメディアクリエイターの差異の指向性は何なのかと言うと、若者たちの色んな記事を総合してみるに「ブログをステップにして、コンテンツをYoutubeや他のニュースメディア、ラジオとかテレビにもどんどん出していきたい」と考えている人たちなのでしょう。だから彼らはブロガーではない。メディアクリエイター以外の何者でもないのだ。

では、私は何者かって?私は何でも良いです。別に何の差異も意識していないから。だって、このブログは基本的にweb日記だからね。強いて言うなら「web日記をつけている人」だよ。