「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

通夜〜内田樹先生の講演会

とりあえず、連休の前半の話。

先週の火曜日、父から父方の祖母が亡くなったと連絡があり、父の地元である東京の下町で行われた通夜、告別式に行ってきました。祖母は94歳、老衰で亡くなりました。大往生とはこういうことを言うのでしょう。

あまりに長生きすると、友人も居なくなり(もしくは出かけられる状況になく)、葬式は小規模になっていく傾向があるような気がします。まぁ、曾孫がもっと入れば違ったのかもしれないから、自分たちの責任なのですが…。

祖母はとても厳しい人で、お盆正月に訪ねた幼い頃の私は、いつも正座をさせられ沈黙して、ただ時が流れるのを待っていたと記憶しています。そんな祖母ですが、私の就職が決まり、一人で挨拶に行った時、既に痴呆も進んでおり、たぶん孫ということをよく理解していない状態だったのですが、初めて素の部分を見せてくれました。「あんな時代に、あんな家で生まれたから、こんな風に生きるしかなかった」と穏やかな表情で語っていました。

葬儀で集まった親戚の話を繋ぎ合わせてみるに、祖母の人生は、その時代に生きた他の人と同じ様に壮絶なものだったようです。名古屋の裕福な材木屋の長女として生まれた祖母は、最初の旦那さんが戦死し、子供が出来ない身体であると医師に診断されました。その後、同じく奥さんを失くした二人の子連れの男性と結婚、一旗揚げようと満州で商売をしにいくが、戦争が終わり、商売もできなくなる。死にものぐるいで日本に帰国後、子供が出来ないと言われていたのに、二人の子供が出来、その長男が私の父です。

どこまで本当の話なのかも、分からないほど、みんなが祖母のことを知りませんでした。それくらい無口で頑固で恐ろしい女性でした。でも、その性格はきっと時代と環境が育てたもので、鉄の意思でその生き方を貫いていたことを、私だけが知っているようで、少し寂しい気持ちになりました。

祖母の最期の顔を見ると、死とは生からはっきり線引きされたものではなく、だんだんとぼやけた境目を渡っていく行程のような気さえしました。きっと、安らかな最期だったんだと思います。

その後、急いで大阪に戻り、前から楽しみにしていた、内田樹先生と鷲田清一先生の講演会を聞きに行きました。東京から急いで向かいましたが、開始に5分間に合わなかったため、席はすっかり埋まってしまい、一番後ろからの聴講となってしまいました。

私が勝手に作り上げていた内田先生のイメージは、大柄で屈強な骨格から響き渡るような低い声がゆっくりと発せられ、慎重に選ばれた色彩豊かな語彙が聴いているものの魂を揺さぶる、という感じだったのですが、全然違いましたw とにかく舌が軽い!ポンポン思いついた話を次々と矢継ぎ早に打ち出して行くのです。どこかの本でも言ってましたが、すごく”おばさん”っぽいのです。あ、そうそう、あれと言えばさあ、あれオカしいよね、という感じ。川が流れる様にというよりもマシンガンを打って、弾が切れたら補充して、というタイプでしょうか。勝手に作り上げたイメージと偉い違いだったのは、気軽なカルチャーセンター主催の講演だった、からかもしれません。あれが学術発表会だったら、重厚な言葉を、低い調子で喋ることが求められますが、その場で面白い話をみんなに聴かせるためには、機嫌良く、知性を降る回転させて、軽いテンポで語ることが一番ですから。

はっきり言って、何の話をしていたか、とか何が面白かったか、とか全然覚えてないのですw でも結構面白い話をいっぱい聞けたなという感想だけは残っています。

最後は、新刊を買ってサインをもらうことも出来たのですが、サインをもらって人に自慢したり崇拝したりするやり方は、それこそテーマである”成熟社会”の構成員が列をなしてまで行う行為ではない気がして辞めました。本は結局次の日に買ってるから、サイン貰っとけば良かったと今更後悔していますがw

今度はトークショー形式ではなく、独演会を聞きたいですね。