「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

あの根源的問題について②『どうせ死ぬのになぜ生きるのか/名越康文』

死を考えるシリーズ2回目。この本は紀伊国屋のメルマガで発売の連絡があり、まさにこれだ!と思い即買いしました。

P16 どうして僕らの悩みや不安を振り払っても、振り払ってもなくなることがないのか。それは結局、そうした具体的な一つひとつの悩みの根底にある「漠然とした不安」を僕らが解消できずにいるからです。
P17 なぜこれほど恵まれた生活を送っている僕らの心の中に、不安があるのか。それは、僕らがある一つの問いに答えを出していないからです。その問いとは「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」です。これはすべての人間にとって、他に比べるものがないくらい根源的な問いです。

根源的な問いに対して考えるヒントをくれる本であることは間違いないのですが、問いの立て方が私の問題意識とは少し違います。「なぜ生きるのか」という問いの立て方はあまり興味がありません。なぜなら答えは誰でも持っているような気がするからです。だって愛する人たちに囲まれ、美味しいご飯を食べ、素敵な音楽に打ち震え、新しい小説を読み進めるだけで、もっともっと生きたいと思うから。もっと言うと四季の移ろいを肌で感じているだけでも人生は生きるに値すると私は思う。なぜ生きるんだろうとか、人生はくだらないから死にたいなどとは全く考えない、でも「死」をどう理解したら良いのかがわからない、それが私の問題意識です。

P21 「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えられない限り、僕らは根本的なところで「生きることの意味」を見出せない。だからこそ僕らはいくらお金を儲けても、いくら恋人や家族に恵まれても、心の奥底にある「漠然とした不安」から逃れることができないのです。

確かに「死」をどう捉えるかによって、生き方、この世界でも振る舞い方が大きく変わってくるのは確かだと思います。「死」についての答えを留保している限り、自分の人生への立ち向かい方も宙づりになったままです。果たして、この本は「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに対して回答を用意してくれているのでしょうか。

P34 ただ「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えるには、理論的な説明だけでは十分ではありません。いくら論理的に説得されたところで、「どう生きていけばいいのか」というレベルでの指針に納得し、実際に自分で取り組む、ということができなければ、他ならぬ私が抱える漠然とした不安は解消されないのです。
P54 おそらく、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という人生をかけた難問の答えは、言葉による「理屈」や「論理」の中ではなく、言葉を超えた「現実」の中にあります。

そうして、名越先生はこの問いの答えを求めるためには”仏教しかない”、つまり”行”をやれ、と言います。いやいや、なんで行なんかが根源的な問いに対する答えになるんだよ、とツッコミたくなりますが、きちんと読み進めていくと、非常に価値ある内容に行き着きました。

P102 行に取り組むことで「自分」という意識、すなわち自意識の枠組みが溶けていき、その結果として心が落ち着くという説明は有力だと僕は考えています。
P109 自意識は「過去の自分」「今の自分」「未来の自分」をひとつにまとめる力を持っています。そのことによって人間は、過去から未来へと様々な思いや知識を託していくことができるようになった。しかしその自意識の力によって、僕らは不安や後悔にとらわれるようになってしまったのです。

・・・むむむ、そういうことか。なるほど、この理屈は非常にわかりやすい。今までの凝り固まった思考回路を解体してくれました。何もないところに宇宙が存在し、自分の意識が世界を認識しているが、自分が死んでも無限の時間と無限の空間が、ただひたすら続いていく、それが恐ろしい。この果てしない寄る辺のなさが恐怖を生む。私も(ホリエモンも)そう考えていました。しかし、この理屈をつきつめていくと、自分が勝手にある前提をはめ込んで世界を認識していて、そこからはみ出る領域を勝手に恐怖と感じているだけだと気付きました。だから、恐怖は、その前提を解体すれば、消え去るのです。

その前提とは、自分という意識(主観)が世界を対象として捉えている(客観)という世界観です。この主客認識が、この世の成り立ちの全てだと思い込んでいるから、その枠組みでは捉えきれない「死」が途端に恐ろしくなるのです。死は主体も客体も全て解体してしまう。過去も今も未来も、主体が認識している世界観の全てを換骨奪胎する。でも、絶対的な主体と、絶対的な客体が過去今未来に厳然として存在する、という信憑を持っていられるのは、本当は単なる偶然なのかもしれない。そんな今までの世界認識は、本当は、何の普遍性も持たない、ということを受け入れれば、「死」の恐怖は雲散霧消していく。

この主体と客体という世界認識を肌感覚で解体するために”行をやれ”と名越先生は仰っています。行なんて何でもいい。熱中できることならなんでもいい。無心になるのが目的だから。靴を磨いている時、車を洗っている時、楽器を弾いている時、走っている時、そのことに没頭して、自分が解体される瞬間ってあるでしょう。自分なのか、相手なのか、ものなのか、景色なのか、音なのか、触感なのか、そんな風に主体と客体の境界線が融解した時、ようやく我々を捉えていた死への恐怖は消え去ります。その瞬間、その実感が「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という根源的な問いへの答えなのです。

ということで、死をもっと深く理解する鍵は、この世界認識、つまり主体客体という二元論をどう相対化し、克服するか、という議論の先にありそうです。行は瞬間瞬間で死への恐怖を解消してくれますが、自意識が存在する限り、永久に死から遠ざけてくれる訳ではありません。次は仏教的なアプローチから離れて、西洋哲学的なアプローチを取ってみたいと思います。