「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

態度が悪くてすみません

態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い (角川oneテーマ21)/内田 樹
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こんな勢いで本を出しているのだから、他の本と同じ内容でちょっと編集を加えた記事を見つけたりする。 とくにこの本は、ブログっぽい。 記事はそれぞれ面白いんだけど、統一感がないというか散文的というか・・・ なんで一冊の本にしたの?って感じ。 エッセイ集と言った方が良いかもしれない。 でも、超納得させられる個所があったので、抜粋。

p19
すでに述べたとおり、シティガールたちは防衛のために身体感受性の感度を下げることを余儀なくされる。不快な感覚情報の入力を遮断することで、かろうじて彼女たちはタイトでストレスフルな都会生活を生き延びているのである。だとすれば、不快な感覚情報そのものが構造的に排除されている低刺激環境において、学生たちの感覚が鋭敏化することが許されるのはロジカルには自明のことである。感受性を上げても、不快な入力がない。むしろ四季の移ろいにともなって生じる微細な感覚入力の変化を愉悦的に味わうことができる。低刺激環境においては、身体感受性の感度を下げることよりもあげることからより多くの利益をえることができるのである。

ガールとか彼女を社会人とかサラリーマンに置き換えると、今の自分がなんでこんなことになってるのか理解できた。 ムカつくアホ上司と毎朝顔を合わせ、ゴミ拾いトイレ掃除をし、一日中車の運転をして、お客さんのご機嫌をとりながら、営業成績を出さなくてはならない。 こんな毎日の中で身体感受性の感度を上げることになんのメリットもないのだ。むしろ、感情を殺す方が生存競争上有利に作用する。上司のアホな指図にハイハイと従うには、自分の感情を表に出してはいけない。ずっと事故の心配をしながら車の運転なんてできない、どこかでまぁダイジョウブだろ、くらい思考停止しないと車なんて運転できるわけがない(簡単に人を殺せるんだからね)。めちゃくちゃなお客の要望に応えるためには自分の事情なんて押し殺さなくてはならない、時にはプライベートさえ汚されることを厭わない人じゃないと結果を出せない世界だ(少なくとも今までは)。 何も感じない、自分の感情を出さない、っていう方向に全力を尽くさないと心がもたないのだ。 だから、今の僕は身体感受性を限界まで下げている。 だから、あまり、笑わないし、楽しくない。 社会人になると楽しいことがない、のではなくて身体感受性を極限まで下げているから、少しのことで楽しいと感じることができない、というだけなのかもしれない。 学生時代は楽しめたのに・・・とかあるじゃん。それは当時は感性を最高に敏感にしてたからだ。少しでも周りの面白い人の良さを引き出した方が自分も面白い。季節の移り変わりを感じた方が楽しい。春は花見、夏は海に花火、秋はキャンプ、冬はクリスマス、いろんなイベントがあり、周りにはいろんな面白い人たちがいた。そんな環境で感度を下げるなんてもったいない。毎日を全力で生きた方が良いに決まっていたのだ。 言い換えれば環境が好きだったんだろうな。人が好きで学校が好きでこの時間の使い方が好きだった。だから、無意識に感度を全開に出来ていた。毎日輝いていた(想いで補正があるにしても) 今は、その全く逆。 感度を全開にしていやなことをいやと思い、楽しいことを楽しむ、って・・・今の閉鎖社会では無理だよなー。 だって、嫌いな人と関わらなきゃいけないってことは既にストレスフルな環境なんだから。 感度マックスにしたら不快の倍々ゲーム、超不快だよ。 トルコ旅行中は感受性をマックスに出来たから楽しかったんだろうな。 感受性自体は変わってなくて、その感度を上げるか、下げるかっていう話なのだから、切り替えをうまくすれば良いんじゃないだろーか。 仕事モード。 何も感じない・・・・。はいはい。飯は流し込み、季節は過ぎゆく。 休日モード。 空気が綺麗、ご飯が美味しい、人との出会いが楽しみで、季節の移り変わりに喜びを感じられる。 なーんて、簡単に出来ればいいよねー。