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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

他者と死者

他者と死者―ラカンによるレヴィナス/海鳥社
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卒論のとき、すこし読んだこの本。内容は全く覚えていませんでしたが、入院中に読み終えました。 病院の中で死者ってタイトルについている本を置いておくのも気が引けましたが、飽くまでも死者を弔う話でリアルに生きている人間が死んでいく過程をあつかったものではないので、まぁいいかと思いました。 以下、心に刺さったフレーズを幾つか挙げます。

p149 ホロコーストはヨーロッパ形而上学を涵養したまさにその風土から生み出された。だとしたら、ホロコースト以後の時代に再びそのような形而上学を基礎として、批判を下し、人々の傷をいやそうと望むのは節度を書いたふるまいだということになるだろう。それは死者に対して敬意を欠くことになる。 透明で叡知的な主体、どのような歴史的出来事によっても汚されることのない冷ややかで中立的な観想的知、そのようなものをヨーロッパ文明の再建の基盤にすえることはもう許されない。

ラカンレヴィナスの知性はこういった出口なしの困難な状況に直面して鍛錬された。ここからは主体、他者の二元論で語ることが許されない。ラカンレヴィナスがあえて複雑な理路を駆使して、単純な理解をさける理由はここにある。

p248 つまり、自らの死の切迫のうちで、おのれの死がおのれの現存在の最も固有な可能性であることを覚知した人間が善行を行うのではなく、死の切迫によって、存在の彼方を望見した人間がなす行為を総じて善と呼ぶという定義の方が、あるいはことの順序としては正しいのかもしれない。

まさに目から鱗の論旨だ。善はそれじたいとして善なのではない。存在の彼方という視座を想定し、おのれを有責なる被造物として回顧し、発語する運動が善なのだ。

p268 神が完全管理する世界には善への志向は根付かない。皮肉なことだがそうなのである。私の外部にある他者がまず私の罪を咎め、それに応えて私が有責観を覚知するというクロノジックな順序で物事が進む限り、人間の善性は基礎づけられない。人間の善性を基礎づけるのは人間自身である。

これを聞いてしまうと、ユダヤ教の道徳観がずば抜けているのが分かりますね。 一度、エルサレムへ行って、その躍動を肌で感じてみたいです。