「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

不死のワンダーランド

不死のワンダーランド―戦争の世紀を超えて (講談社学術文庫)/講談社
¥959
Amazon.co.jp

またまた西谷修。かなり前に、アマゾンで西谷修の本ばかり衝動買いして、それが溜まっていたものです。 これで最後!不死のワンダーランド! この本のテーマは「死」。ハイデガー哲学の「死」の概念が、バタイユブランショレヴィナスの思想の中でどのような変遷を遂げ、歴史的意味をもったか、を考察する。 色んな章があるけど、全体を貫いている論理や結論は同じ。 われわれの世界は何故「不死のワンダーランド」なのか、説明されている。 p19 <存在>ないし<実存>ということが改めて哲学的課題になったということは、自分のなす行為とかその行為がなされる対象世界とか自分の置かれた社会的関係、あるいは自分の内面世界への関心とは別に、自分が存在することそれ自体が意識されるという事態に対応している。つまり、意識とは通常自己を世界へとひらきそこにつなぎとめる世界との関係だったわけだが、その意識がそれ自身の方へ反転して自分が存在するという事実との関係になったという訳である。 ハイデガーの「存在論的差異」についての説明。自分の意識する対象世界、志向性がかたどる世界から哲学を構成していく「現象学」とはベクトルの方向が違うことがわかる。現象学は外へ、ハイデガー形而上学は存在という事象そのものへ、ベクトルが向いている。 p22 ハイデガーにとって「世界の無化」は現存在を「存在の明るみ」に導き、本来性へと復帰させる契機となる。しかしレヴィナスにとってそれは、純粋な存在するという出来ごとの露呈、というよりその非人称性によって強調された非情の夜としての<ある>への還元であり、この全面的無比の暴威と存在の非人称性にこうして腰、主体は生まれでなければならないとする。 p41 みずからの有限性を自覚して存在の運命をまっとうする現存在とは、戦場で死を覚悟し、祖国のために身を捨てて突撃する兵士の姿に酷似してはいないだろうか。事実ハイデガーは存在の運命を民族のそれに結びつけていた。 ハイデガー志向性に規定された世界を生きる日常的現存在を頽落と見なし、「死」による不安が現存在の「本来性」への回帰を実現させると考えた。そして、この本来性への回帰として、「存在の運命」を担う共存在=民族への回帰という飛躍を説く。ハイデガーが陥った、この落とし穴はこの論理が存在をあくまで存在者の存在としてしか想定しないことに起因している。、よりラディカルに「存在そのもの」、主語のない<ある>を徹底的に定義しなおしたのがレヴィナスであった。 p30 ハイデガー的な不安のなかでは現存在は無に脅かされながらもなおこの無を決断によって担い取ることが出来る。中略、ところがレヴィナスの恐怖はその決断の枠である存在者性を喪失させる<ある>への没入によって引き起こされる。そこでは主体は支配性も人称性も失い、不分明な基底に送り返されて、もはや事故を取り戻す決意もあり得ない。 主体の人称性もない、<ある>に死は訪れない。なぜなら、誰が死ぬのか、の<誰>が規定され得ないのだから。人が<ある>の闇に流入した時点で、彼は彼ではなくなる。<ある>は彼から死を奪う、彼から<彼>を奪うからだ。 p53 ハイデガーの存在とレヴィナスの<ある>を隔てているのは、この死を与えるという行為、否定の行為であると言ってよいだろう。ハイデガーの側には可能な死、行為の対象となりうる死があるが、レヴィナスの側には死の不可能性がある。 ここがこの本の最大のポイント、というか唯一強調したかったところである。「死の不可能性」。人間は死ぬが、「私」は死ねない。死とは「私が私でなくなる」ことであるから、死を受け入れた時点ではもはや「私」ではないのである。 p194 しかし日常性やそのひろがりである公共性を頽落とみなす必要はないし、その頽落を不のバネとしてここにない「本来性」をあるべきものとして捏造する必要もない。「喪失」はそれ自体の積極性を持っている。「固有性」があり得ないということ、「本来性」が不可能だと言うことが、近代の解放の帰結なのだとすれば、その「固有性の不在」、「本来性」なるものの不可能は逆に言えば何か神の様なものの大空位の「開け」そのものでもある。この開けが積極的なものでないはずがない。 ここに著者の哲学的モチーフがある。大空位時代こそ、人間の解放、裸の、剥き出しのままの人間で思考をめぐらすことが出来る起源となりうるのだ。 p250 実存を語った哲学者あるいは文学者たちは自分に固有なものとみなされた死との関係が実存を本来的ないし真正なものにすると考えた。だが可能事の果てへの旅を企てたバタイユや書くと言う無為の行為に留保なく身をさらし、その体験を熟思したブランショ、あるいは歴史の業火の中で世界が崩壊し私の消滅する不眠の夜をもぐりながら実存の思考を試練にかけなおしたレヴィナスは、人間の力を最大限に発揮し、いかに死をこの手で引き寄せようとも、死が決して「私」のものとはならないこと、むしろ死をわたものとしようとする最後の行為がひとを永遠に私の死の不可能な場に投げ出してしまうのだということ、死がある意味での瞞着であり、人間の陥る罠であり、人間は自分の死をしぬことができず、逃れようのない恐怖とは死ぬことの恐怖ではなく死ねないことの恐怖だと身を持って示した。中略、彼らはそういう死の不可能性と実存の非完結性とを教えたのだった。 誰にも属さない死、神の死。今われわれが生きている世界は死のない世界、不死のワンダーランドなのだ、というお話。。