「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

街場の読書論

街場の読書論/内田樹
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手元に本がないと電車に乗れない、トイレに行けない、これを活字中毒というだろうか。いや、音楽があれば活字がなくても平気だから活字中毒ではない。何も見ない、聞かないでいることが、怖い。なにこれ、貧乏症? こういう時には本屋に入り、内田先生の本を買えば間違いない。いつも目からうろこの発見があるし、何より読み物として楽しい。だけど、注意しなくてはならないのは、内田先生の本は面白過ぎて、つい他の本が後回しになってしまうことだ。案の定、この本も、他の本を差し置いて、すぐに読み終えてしまった。これほどの書き手はなかなかいない。僕は内田先生の書いた文章は日本一だと思う。

P41 クリシェと割れた言葉

耳を傾けたくなる話とそうでない話がある、その差はなんだろうと思っていたが、見事にその答えが書いてあった。聞いててつまらない話とはストックフレーズを毎度同じ組み合わせで羅列する話である。政治家やコメンテーターがどのチャンネルでも言っていることを、そのまま自分の言葉のように話す人の言葉には耳を貸す気になれない。だって、最初から最後まで全て予想可能だから、時間の無駄なのだ。何度も同じ話(しかも不愉快な話)を聞かされるのが楽しいはずがない。それに対して、割れた言葉は自分が語りつつある言葉を遡及的に語ることができる言語、らしい。自分がなぜその言葉を綴ろうとしているのかを同時に語っている言葉、ということだろうか。誰かから与えらたストックフレーズでは、なぜそのフレーズの後ろにそのフレーズがくるのか顧みられることはない。だって、そのフレーズの組み合わせしか知らないし、意味だって分かっていないんだから。割れた言葉は、次々と自己言及の視座が入る。その言葉はその人自身に語られた言葉であるから、聞いていて興味深く、新しい視点をくれる。おそらく、片言の英語で会話を交わす場合、クリシェ同士の会話になる場合が多いため、なかなか印象に残る話にならないのかもしれない。

P240 大人になるために もっとも弱く、非力なものとともに共同体を作り上げ、運営してゆくためには、どうしてもしれなりの数の「大人」が必要です。十分な能力があり、知恵があり、周囲から十分な経緯や信頼を得ている者はその持てる資源を自己利益の為ではなく、かたわらにいる弱く、苦しむ人たちの為に持ちいなければならないと考える「大人」が必要です。

最近、こんな古臭いことを言う人がいなくなった。自分の能力を磨き、自己責任で幸せを勝ち取れ、国家や共同体など幻想だ、という言説がメインストリームだから。でも、おそらくそんな合理主義者も社会の「大人」から原初の恩恵を受け取っているはずなのだ。だって、子供は生きていく糧を勝ち取ることができないから。自分の能力は誰かに与えられたものと認識し、自ら有責性を引き受け、社会的フェアネスを実現しようとする人のことを「大人」と呼ぶ。「大人」なしには社会は解体する。現に今、解体し始めているのかもしれない。マルクスはそのことを知っていたらしい。だから、いまマルクスを読む必要がある。と言う訳で、また今度読もう。

P240 日本人とは・・・ 文字を読むとき、図像処理と音声処理を脳内で同時に行うと言う解剖学的曲芸をえんじるのは、たぶん地上にもう日本語話者しかのこっていません。

なるほど、日本語ってそんな特性があったのか。かなでは音声で意味処理を行い、漢字はその形から意味を読みとっている、思えば不思議な機能である。

P256 母語運用能力について 自分が何を言いたいのかあらかじめわかっていて、相手がそれを出来るだけ早い段階で察知できるコミュニケーションが外国語のオーラルコミュニケーションの理想的なかたちである。

だから、ストックフレーズをひたすら覚え、今の状況に似たニュアンスのストックを箪笥から引き出して伝達する。もう決まった言い回しだから、100の言葉を言わなくても、そのストックを提示すれば相手に伝わり、コミュニケーションは完了する。そう考えると、外国語のコミュニケーションとは実にむなしいものである。ただ、その状況に応じた言葉を過去の歴史から引っ張り出して、その通りに実現させるだけ。外国語を学ぶ目的があるとすれば、ビジネス以外にあり得ないんじゃないの?いやいや、これは自分からのオーラルコミュニケーションに限定された話だ。相手が母国語であれば、話を聞いたり、文章を読んだりして、相手の懐に迫る事は出来る。だから、外国語を学ぶ仕方として、文法、リスニング一辺倒というのは、意外と的外れではないのかもしれない。日本の英語教育も、これを意識してのものだとしたら、なかなか炯眼を持っていると言える。

P271 卒論の書き方

こんなことを言ってくれる先生がいたら、のびのび卒論が書けるし、書き終えたときの達成感もひとしおだろう。書く前と書いた後で自分が変わった経験、たしかにある。卒論を書き始めた時、どんな結論になるのか見当もつかなかったが、最後に信じられないところに着地し、序章を書きなおした、たしかにそうだった。卒論を書く全ての学生に読んでほしい。

P391 補稿 世界の最後に読む物語 同時代の自分の価値観や美意識を共有する身内の読者だけを想定し、おのれの外部に発信する気のないテクストをイデオロギーと呼ぶ。
P405 あとがき

宛先のないテクストを読むのに人は吝嗇を示す、ものらしい。そりゃそうだ。このブログは宛先も想定していないし、署名もない。だから、リーダビリティのない文章ばかりなのだ。このブログは、元々自分の備忘録として始まったものだから、当たり前なんだけど、もし読んでくれている人がいるのなら、その方を想定して書いた方が良いのかもしれない。その為には実名をさらす必要があるんだけど、でも、実名で書くには、縛りがありすぎるんだよなぁ、サラリーマンって・・・。こんな守りの人間がリーダビリティのある文章を書けないのも納得である。