「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

世界史の臨界

世界史の臨界/西谷 修
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p36 西洋的歴史が成就し、それとともにヨーロッパなるものがそれの主体としての八鍬目を終えたとしても、それに代わる別の主体が世界の新しい歴史を導いていくというのではない。世界化の成就に伴って、ある主体に特権的に導かれる歴史というものが役目を終えたのだ。歴史はヨーロッパの運動によって世界を覆い尽くし、そのことによってある臨界に達した。臨界とは物質の形状や相が変容する瀬戸際である。西洋的歴史が終わったということは歴史ないしは世界史がもはやこれまでの構造を維持できず、みずからの帰結措手生み出された状況そのものによって変容する臨界にたっしたということでもある。

おそらくこの一節で、この本の一番寛容な部分を言い表している。世界史はヨーロッパ史である。いかにヨーロッパが世界と同化していくかを綴ったものである。中国史やアフリカ史がそのまま世界史に触手を伸ばしていくことはないし、アメリカ大陸にかつて存在していた文明には、歴史がない。なぜなら、文字がなかったのだから。記されることがない歴史は歴史ではない。

p123 世界中のいたるところで服装も生活習慣も価値観も社会制度も教育システムもそこで身につける世界に関する知もそのルールも全てはヨーロッパがもたらしたものであり、それが世界化した世界でのスタンダードになる。つまりそれが標準で、あとのものはエスニシティとして付加的な意味しか持たないことになる。中略、国の在り方もヨーロッパ産、そしてその関係を律するルールもヨーロッパがその歴史的経験の中から生み出したものである。

日本は換骨奪胎され、ヨーロッパのあらゆるシステムを咀嚼し、体現してきた。そこに生まれ育った僕は、何も気付かないままヨーロッパ的価値観、ルールの中で、暮らし、学び、働いている。 この本がかかれたのは10年ほど前、アメリカの学者フランシスフクヤマが歴史の終わりなどという本を出し、大変物議をかもした、それをうけて書かれたもののようだ。この文献は当時は流行したようだが、今引用されることはない、いまさら参考文献として出す人もいないし、反論する人もいない。たぶん、流行に乗って去っていただけのおしゃべりだったのだと思う。そんなリーダビリティの低い、文献に関する考察でもあるので、この本もそこまで読む価値があるものでもない気がする。ただ、10年前に、ヨーロッパ的歴史の円環が閉じた、と言われていた、そのことが興味深い。 今はどうだろう。アメリカを超大国と思っている人はたぶん、一人もいない(アメリカ以外)。経済がボーダーレスになり、人、資本、文化の移動がますます激しくなり、ヨーロッパなるもの、非ヨーロッパなるもの、の区別さえつかなくなるだろう、と考える人がいるかもしれない。でも、ヨーロッパ的なものが消えるわけではない。そのグローバル資本主義も、ビジネスで買わされるルール、言語も、おそらくヨーロッパなるものから端を発している。とすると、世界の飲み込むグローバル資本主義は世界のヨーロッパ化の第2波なのではないかい?いやいや、おそらくそんな簡単にはいかない。インド11億人の民は今現在、決してヨーロッパ的な繁栄を謳歌してはいないし、中国13億の人民がヨーロッパ化するほどの力をもうヨーロッパは持っていないのだ。 個人的には文化は閉じると思っている。経済政治のトップ、エスタブリッシュメントだけが、ヨーロッパルールで交流し、自文化に持ち帰る。今後、人口が爆発的に増えれば、あらゆる資源が足りなくなる。限られた資源の中で、自国の民をいかに食わせるか、を考える時代が、そう遠くない未来にある気がする。ボーダーレスに奪いあうほどのエネルギーさえない時代。そんなエネルギーがあれば、食料をくれ、という時代。 だから僕は、食を作る仕事をしたい、と考えていたりする。