「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

レヴィナスと愛の現象学

レヴィナスと愛の現象学/内田 樹
¥2,940
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結構前に衝動買いした本。これを買った後すぐに文庫版が出たので、悔しい思いをした。 ただ、内容は奇知に富んでいて、3000円でも高くない買い物だったと思える。 内田先生が師匠と仰ぐフランス思想の賢人レヴィナス。彼の晦渋な思想を内田先生が噛み砕いて説明してくださる、良書である。噛み砕いてはいただけるものの、ちょっと気合を入れなければ難しい表現ばかり。1日15分風呂とトイレで読む訳にはいかない類の一般書以上専門書未満の難易度である。

P71 オデュッセウスの冒険は、「未知なるもの」を絶えず「既知」に還元することをその本義とする。彼が異郷を彷徨うのは、より包括的な全体性を構築するため、彼の世界カタログをより精密で豊かなものするためである。
P72 全体性を志向する自己には外部がない。というより、自己は構造的に外部を持つことが出来ないのである。なぜなら、全体性志向とは理解を超えるモノを命名し、己の容量を超えるモノを適正なサイズに切り縮める、脈絡なく散乱したものを一つの物語のうちに取りまとめる、人間に授けられた法外な知的能力の別名だからである。

知る=命名し、線引きし、自らの物語の然るべき個所に配置する行為。とするものが全体性志向である。自己がこの世の中の全体であり、未知なるものを摂取して、その全体性はみるみる巨大化していくことになる。 それに対して、レヴィナスが持ちだす他者の概念は、自分の理解を超えるモノとして立ち現われる。定義からして理解を超えるモノなのであるから、命名することも、自らの物語に摂取することも不可能である。彼と対峙している私はどうするべきなのかを説明し教示してくれるような上位審級が存在しない。私以外に他者を引き受けるものが存在しない以上、全ての決断の責任の所在を私以外に求めることが出来ない。この絶対的に孤独な私こそが主体なのである。

P99 素朴実在論者は夢中になって舞台を見ている観客に似ている。その意識は舞台の上に展開しているドラマに没入しており、どのような演出的技巧の効果でそのように見せられているかはさしあたり意識されない。中略、一方、懐疑論者はしらけた観客に似ている。彼は舞台の上にあるものがボール紙の書き割りであり、俳優達が舞台を降りればタダの普通の人間であることを知っているので少しもドラマに没入することが出来ない。現象学者は演出家である、演出家はしらけたまなざしで、俳優の演技や照明や音響や舞台装置をチェックしている、それがつくりものであり、仮象でしかないことを彼は熟知している、だがM舞台を分析的にみることに逆に没入しすぎると観客が舞台の上でのんとうにみているものを見逃す可能性がある。舞台の上には批判的なまなざしが見落とし、心を奪われた観客だけが幻視する劇的世界があるからだ。だから、優れた演出家は覚めていると同時に没入していることが必要である。現象学者の仕事はこれに似ている。

現象学のスタンスをこれ以上ないくらい身近で簡単な比喩に喩えている。レヴィナス老師の優れた描写である。素朴実在論者を喩えるなら自然科学者。彼らは目の前に起ったことを記述し、仮説を立て、検証し、理論を組み立てる。今目の前で起きていることと真摯に向き合っている彼らに「自分が知覚している世界は本当に存在しているのか」とか「今の私は一分前の私と違う人間なんじゃないか」という疑問は浮かばない。そんな疑問が浮かばないのは、彼らが愚鈍だからではなく、学問の射程範囲が「いまここわたし」という足場をきっちり固めてから、打ち込むところにあるからである。それに対して、懐疑論者は、さきほどのような疑問を無限に吐き出す。正確をきすためには前提条件の確かさを証明しなければならないのだが、どの前提だろうが疑えば切りがない。そうすると、何の理論を打ち立てることもできず、この世界への理解が一歩も前に進まない。だから、現象学者はその中間点に足場を置く。自分たちは舞台を見ているに過ぎないことを意識しつつ、舞台の中身にも眼を凝らすのだ。世界を経験しつつ、経験の仕方そのものを反省すること、それが現象学的判断中止=エポケーと術語かされている。

P152私が今見ていないものを観ている視線、私の知覚に直接的には現前していない者を十全に与えられている知覚、それが定義上、「他我」と呼ばれる。
P153 自我における根源的に主観的な経験とされるもの自体が、すでに間主観性の経験に基づいてしかありえない

フッサールの他我概念とレヴィナスの他者概念の比較。一言でいえば、他我とは私から想起させられる別の視点のことである。いまここにいる私とは時間的空間的ずれをもつ私の視点が他我である。私の知覚は、目の前に根源的に主観的に与えられる経験のみを準拠して成立するものではなく、いつも別の場所、別の時間から経験される知覚も加味されている。その別の経験が間主観性である。だから、直接的に現前するものと間接的に現前するものを区別すること自体がナンセンスなのである。私が知覚する、ということは二つは同時に生起させる、ということだからである。それは同時に、私が近くすると同時に他我を定位させる必要があるということである。 フッサールの他我概念とレヴィナス概念はここで圧倒的な隔たりが生まれる。 中盤はポーヴォワールとイリガライというフェミニストによるレヴィナス批判の有効性を検証する。レヴィナスをある程度理解するほどの頭脳の持ち主がフェミニズムという狭隘な枠組み捕らわれながら思考できるのが不思議でしょうがない。 後半は顔の概念を記述。顔とは意味生成の場であるが、顔の彼方とは意味生成の前起源的な事況であるという。

p280 男女が向き合う時に生成するのは、そのように直載的な私と他者の顔の対面的事況ではなく、顔を見合わせるという倫理的事況そのものを起動させる、それよりさらに始原的なさらに根源的な出会いである。この出会いのうちにこの世界を私たち住める世界に作りなしたいという根源的な熱と柔和さが生成する

女性の顔を前にして、意味生成の手前で、欲望が起動する。その柔和さへの欲望が倫理を生成する。女性の顔は意味生成する場を提供する、その意味で、女性を前にした事況は顔との対面ではない。顔の彼方との対面、意味する場をつくる事況、つまり意味しない事況なのである。女性との対面は、同時に主体の生成でもあり、顔の彼方との対面が倫理を動機づける。、その倫理性ゆえに人間は有責性を引き受け、人間がいきている世界をつくりあげようとする。この理説を愛の現象学と言わず、なんと呼ぼうか・・・。もちろん、ここでいう女性とは生物学的な女性を指しているのはない、飽くまで欲望の対象、自らが身を引き主体を生成する役割を担った『弱さ』の比喩である。この術語設定があらぬ誤解を、招く要因になっただが、レヴィナス老師は何か別の狙いがあって、敢えてこの術語にしたのだろうか。フェミニストから集中砲火を浴びることが予想できなかったはずがないから、別の要因があったのだろうなぁ。 レヴィナスの理説は複雑で難解ながら、愛と倫理観に溢れており、まだまだ勉強してみたいという知の躍動を呼び起こす。いつかは原書に挑戦してみたいものである。