「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

悲しき熱帯Ⅱ④

ここからイスラム教をけちょんけちょんにこきおろす。

P408 彼らが常に粗暴な遣り方で、他者に彼らの真実を分かち持たせようと求めないにせよ、かれらはそれでもなお、他者としての他者が実存することに耐えられないのである。彼らにとって、疑いや屈辱から自らを庇護する唯一の手段は、他の信仰と他の生き方の証人としての他者の空無化のうちに存している。

いきなりなぜここでイスラム教に関する考察が入るのか、一瞬混乱するが、ここからレヴィストロースの知の迷宮の出口に繋がっているのだ。

P409 今日フランス思想を脅かしている危険を図るためには、私はイスラムに巡り合う必要があったのだ。~われわれの社会におけると同様に、イスラム教徒の間で私は同じ書籍偏重の態度、同じユートピア志向、そして、問題を紙の上で明快に時さえすればただちにそれから解放されるとする、あのかたくなな思い込みを認めるのである。法的で形式主義の合理論の陰でわれわれは同じように、世界と社会についての一つの像―そこではあらゆる困難が一つの狡猾な論理で律し得るとされている―を自分たちの為に作り上げてきた。しかも、われわれはもはや世界は我々が語っているようなものから成っていないのだということを心に留めていたいのである。イスラムが今から七世紀前には現実のものだった一社会についての瞑想に浸って、その時代にならイスラムが有効な解決を考案出来たような問題に裁断を下すべく凝固したままでいるように、われわれもまた、一世紀半以来、すでに過去のものになっている一時代につくられらた枠を超えては、もはや思考することが出来なくなっているのである

イスラム社会の社会への態度はそのまま自らが身を置く西洋社会のそれと同じであった、という告白である。

P410 われわれ自身の開花を保証するにはゆたかなものだった諸原理が、他の人々にとっては彼らなりにそれらの原理を用いることを断念したくなるほど、尊敬に値しないとはわれわれは思わないのである。それらの原理を最初に思いついたということで、彼らのわれわれに対する感謝の念は大きいのが当然だと、驚くべきことだが、われわれは思っているのだから。同様にして近東に置ける寛容の考案者であったイスラムは非イスラム教徒がイスラムの信仰を取るべく彼らの信仰をきっぱり捨ててしまわないことを赦し難いのである。なぜなら、イスラムの信仰は他のあらゆる信仰を尊重するという圧倒的な優越をほかの信仰に対して持っているからである。

西洋の思考体系は優れているだろうか。優れている。もちろん、それぞれの社会がそれぞれの価値をもって社会を運営しているので、どちらが優劣という判断もそれぞれの社会に委ねられるべきだが、「価値が相対的であるからそれぞれを主観的に判断することはできない」、という知の体系そのものは西洋起源のものであり、非常に優秀なものである。・・・という一種の西洋の信仰とイスラムの信仰の在り方とを対比する。それは双生児の様に似ているのである。イスラムはキリストも仏教も寛容の精神で認めている。そこが他の宗教と圧倒的に違う、という方向に強く作用し、だから、イスラムが唯一無比であるべきなのである、という結論が導き出せる。この論法は、西洋の価値基準と全く同型である。西洋社会と東洋社会。それを隔てる重層な壁として君臨し続けるイスラム。彼は仏教にその思いを託すようだ・


P421 私は実際、私が耳を傾けた師たちから、私が読んだ哲人たちから、私が訪れた社会から、西洋画自慢の種にしているあの科学からさえ、継ぎ合わせてみれば木の下での聖賢釈尊の瞑想に他ならない教えの断片以外の何を学んだというのか?~この偉大な不知の宗教はわれわれの理解能力不全の自覚の上に築かれてはいない。それはわれわれの能力を証し、在ることと知ることの相互排除の形でわれわれが真実を発見するところまでわれわれを高めてくれる。

仏教はマルクス主義と同様、形而上学の問題を人間の活動に還元したという。

P425 私は幾つかの状況を生きるように絶えず求められ、その状況の一つ一つが私から何物かを要求する―私が知識に尽くす義務があるように、私は人々に尽くさなければならない、歴史、政治、経済的・社会的世界、物理的世界、そして天空さえもが同心円で私を取り囲み、それらの各々に私の人格の一部分を譲り渡すことなしには、それから私が思考によって逃れることはできないのである。小石が波を打ち、横切りながらその表面に輪を作るように、そこに達するためには私は先ず水に身を投じる必要があるのである。

民族学者として釈尊の瞑想に達するためには、進んで身を投じなくてならない。実践学問としてあらゆる状況に身を置かなくてはならないのである。

P425 世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。制度、風俗、慣習など、それらの目録を作りそれらを理解すべく私が自分の人生を過ごしてきたものは、一つの想像の束の間の開花であり、それらのものは、子の想像との関係において人類がそこで自分の役割を演じることを可能にすると言う意味を除いては、おそらく何の意味も持ってはいない。
P428 その道を踏破できなくても、熟視することによって、人間に相応しいことを彼が知っている唯一の恩恵を受けることが出来る。歩みを止めること。そして人間を借りてているあの衝動、必要という壁の上に口をあけている亀裂を一つ一つ人間に塞がせ、自らの手で牢獄を閉ざすことによって人間の事業を成就させようとしている、あの衝動を抑えること。~それはわれわれの種がその蜜蜂の勤労を中断することにたえる僅かの間隙に、われわれの種がかつてあり、引き続きあるものの本質を思考の此岸、社会の彼岸にとらえることに存している。

われわれが人間の事業と思って為してきたことは何だったのだろう。その手を止めなくてはならない。さまざまな場所や時間に同時に存在する群れの中の人間として、社会を熟視しなくてはならない。 そこに人間に相応しい恩典があるのである。 最後に、暗喩と暗喩の結晶のような文体で語られる人類の未来は、彼の眼にどう見えたのだろうか。決して暗いモノではないはず。彼の文体には生き生きとした人類知の未来が透けて見えるからだ。 すさまじい知の宇宙をうかがうことが出来た。歴史の中の名著中の名著であった。 ぜひ皆にも読んでもらいたい。そして、僕の解釈を正し、一緒に考えてみたい。 そんな一冊であった。