「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

悲しき熱帯Ⅱ③

折衷主義に陥らないためにレヴィストロースの論は進む。

P386 第二段階は、どんな社会からも何物も特別に留めておくことなしに、すべての社会を用いて、異なる社会のではなく、われわれ自身の仕来たりの変革に適用できると思われる社会生活の諸原理を取り出すことから成っている。

つまり、全てが異例に見える外側の社会から学んだことを、自らの諸価値を形作っている内側の社会の変革にあてようということだ。 それでは、結局人間なんてみんな同じ穴のムジナなのか、進歩なんてものはなかったのか、と人々は不安を口にするだろう。


P387 正直に言って、このような味方は私を不安にしない。それは、歴史学民俗学がわれわれに示しているような事実に、もっともよく適合する見方である。中略、進歩の熱狂的な信奉者たちは彼らがそこから目をそらすまいとしている狭い畝をはずれたそちこちに人類が蓄積してきた厖大な富を、彼らが進歩について作り上げる僅かの事例を盾に無視すると言う破目に陥る。過去になされた努力の重要さを低く評価する結果、達成すべく残されている努力の一切を貶めるのである。生きられる社会を作るという一つの仕事にしか人間の努力が向けられていなかったとすれば、遠い祖先の動かした力は、われわれのうちにも相変わらず存在している。何も手は打たれていず、われわれにはすべてをまたはじめることが可能だ。かつて為されたがうまくいかなかったものは遣り直すことができる。中略、こうした教訓にわれわれは古代の新鮮さを再発見しさえする。なぜなら、何千年来人間が成功したのは自分自身を繰り返すことでしかなかったと知れば、原初の名伏し難い偉大さを、陳腐な繰りごとの数々を超えて考察の出発点とするという考えのあの高貴さに、われわれは到達するであろうから。

われわれが進歩と定義しているものなど、われわれの価値観の射程範囲内でしかないとても小さなものである。西洋とはそんなちっぽけな価値観が肥大した世界なのであった。インディオたちの生活の狩猟方法や祭事、裁判、彼らの慣習がわれわれと比肩して劣っているなどということはない。食人もわれわれとおなじ呪術的因習にもとづいたものであるし、顔にかかれた絵は人間生活の永続を夢にたくした深遠な芸術作品だった。ただ、彼らと比べて抽出できる最大公約数は、共通する剥き出しの人間だけだったのではないか。これを原初として、陳腐な考察を捨て、そこから考えることを始めよう。それが、新世界を破壊した西洋社会の人々が取らなければならない姿勢なのではないのか。彼はそう言っている、と思う。 大事な『一杯のラム』編が終わったので、あとはクライマックスなんだけど。 いまからタイへ旅行に行くので、続きは旅行のあとだ。 覚えてるかな―・