「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

悲しき熱帯Ⅱ ②

P369 民族学者は自分の集団の規範に従うことにし、他の社会はせいぜい行きずりの好奇心-そこにはなにがしかの非難も必ず含まれている―を彼の内に引き起こすにすぎないということになるか、さもなけれ他の社会には完全に入り込むことが出来るが、全ての社会に身をゆだねるためには望むと否とにかかわらず、彼は少なくとも一つの社会を拒むことになるという事実によって彼の客観性は損なわれたままでいるか。

彼の既存の社会からみて研究の価値がある、という原初の動機が既に先入観によって裏打ちされているのであるからして、民族学はその発生からして主観的な学問である。だがしかし、自らの社会の一切を捨てて他の集団に入ろうとすれば、それを捨てたというその行為が既に客観的ではないのである。このらせん構造からレヴィストロースはどう抜け出すのか。

P371 われわれの研究意識を掻き立てる社会がもつ様々な価値を論拠にするのでないとしたら、どうしてわれわれはこれらの社会が尊敬に値すると言いきることが出来るのだろうか。われわれを形作ったもろもろの規範からは、どこまで行っても逃れることはできないのだから、我々の社会も含めて様々に異なる社会に一貫した見通しを与えようとする努力はまたしてもわれわれの社会がほかのすべての社会より優越していることを告白する、恥ずべき遣り口に過ぎなくなるのではなかろうか。

現存の価値基盤から、対称に価値を見出すことなしに、価値などつけることができるだろうか。不可能である。だから、彼は全てに客観的に分析することを拒否する。

P370 観照者であるわれわれには、こちらの変化の成り行きや過去が、審美的観照や知的考察に開かれたままであれば、中略、それらを随意に天秤にかけることができるのである。

P372 もしわれわれのものと比較できる目的を取り上げ、社会集団がそれを達成する度合いでわれわれが判断を下すとすれば、時にはわれわれが彼らの優越の前に膝を屈しなければならないだろう。だが同時に、われわれはそれらを評価し、従って、われわれが承認するものと一致しない他のすべての目的を貶める権利を得ることになる。中略、こんなありさまで、どうしてわれわれの研究は科学の名に値すると自負できようか?客観性をという立場を再び見出すためにわれわれはこの主の一切の判断を自分に禁じなければならない。人間社会に開かれた可能性の全域の中で、各々の社会がある選択を行い、それは相互に比較できないということを認めなければならないだろう。それらはみな等価なのだ。だがそうすると、また別の問題が出てくる。中略、一種の折衷主義に譲歩する危険を冒しているからだ。

こうやってレヴィストロースの思弁は深い深い森へ入っていく。全ての人間がそれぞれの価値基準で生きている限り、それらを認めなくてはならない。だが、それはあらゆる文化のどんな習俗や慣習もみてみぬふりをすることになる。自分の社会では咎めることが他の社会でも行われていたら、どうするか・・・今の論理だと人それぞれ、とやり過ごす他ない。だが、己の価値基準からすると咎めなければならない。自分の社会では許されず、他の社会では許される、という価値判断は自分の中で矛盾しているのである。しかし彼はそれを受け入れなくてはならない。

P374 なぜなら彼らが他者であるという他ならぬその事実が彼らの立場で民族学者が考えたり望んだりすること-それは彼らに同化するということに帰着する―を妨げるからだ。中略 結局、初めの選択だけが残ることになるだろうが、それについては彼は一切の正当化を拒むべきだ―動機のない純粋な行為として。

そして論理は初めに戻る。自分の価値判断に基づいていることを意識しつつ、できるだけ客観的な目をもって行動し考察すること。そこで、一つの例を出す。我々の社会が最上級の禁忌としている行為『食人』である。

P376 たとえば、死者の徳を身につけ、またさらには死者の力を無力にするための、親や祖先の体の一部や敵の死体の一片の嚥下。中略 食人に対する非難が含んでいるのは、物としての死体の毀損によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは霊魂と肉体の結びつきの皇帝とそれに対応する二元論である。つまり、非難が立脚しているこれらの信念は儀礼的な食人を行う名目となる信念と同じ性質のものなのであるから、われわれが食人の習俗よりもこちらを選ぶ理由は無いということを人は認めるだろう。われわれが食人の習俗に非をを唱える論拠となりうる、死者を思い出のうちに刻むことにかけての無頓着さは、死体解剖の階段教室でわれわれが容認しているそれより、確かに大きくないどころか、その逆であるだけになお、そのことはいえるのである。

全く隙がない、完璧なロジックである。自分の感情がいかに呪術的で霊的なものに支配されていたかを思い知らされる明晰な文章である。こうやって、読者は自分がいかに客観的な視点でものを観れていないかっを痛感させられる、自分の価値基盤をぶち壊される。これが良本の定義である。さらに文明人への辛辣な告発は続く。

P378 われわれの遣り方における不条理の極致は、罪人を罰する権限をわれわれに付与するために彼を小児としてある買うと同時に、彼に慰謝をk場むためには彼を成人として扱うということであり、さらにまた、我々の同類の幾人かを食ってしまうよりはむしろ、彼らを肉体的精神的にまともな人間ではないと看過することを選んだために、われわれが精神的進歩を遂げたと思い込んでいる、ということである。

インディアン世界の罪人への罰とは恩典である。それは贈り物から始まる。贈り物への返礼が彼に負わされる罰なのである。警察と罪人とにかわされる返礼の応答は誠に人間的であり、理にも敵っているらしい。それは罪人の小児化と呼ばれる。罪人を子供として扱うことが彼への罰なのだろう。それに対して、文明社会は彼らに対して恩典を排除し、成人として、一方的に断罪する。そして、そのことを精神的進歩と思い込んでいるところが、徹底的にマヌケなのである。 疲れたからまた明日。