「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

悲しき熱帯Ⅰ③

悲しき熱帯Ⅰ の三回目

P310 一つの民族の習俗の総体には常に、或る様式を認めることができる。すなわち、習俗はいくつかの体系を形作っている。私は、こうした体形は無数に存在していないものであり、人間の社会は個人と同じく遊びにおいても夢においてもさらには錯乱においてさえも、決して完全に新しい創造を行うことは無いのだということを教えられた。

人間の思考形式は全て体系だって説明づけられる、からこそ民族学は科学なのである。それは元素の周期律表を描き、分子の構造を理解するのと一緒なのだ。ここにも構造主義の肝がある。フーコーも同じようなことを言っていたし、内田樹も同じことを言っていた気がする。今あなたが考えていることは他の誰かが考えたことなのだと。


P325 それゆえ、彼は、狩りも漁も家族もないがしろにして、顔に模様を描いてもらうことに何日もつぶしているこれらの人々を非難する。先住民は宣教師たちに向かって訪ねた「なぜ、あなたはそんなに愚かなのか。」「なぜ、われわれが愚かなのか」宣教師たちは反問した。「なぜなら、あなたがたは、エイグアイェギ族のように体に絵を描いていないからだ。」人間であるためには、絵を描いているべきであった。自然の状態のままでいるものは、禽獣と区別がつかないではないか。

同じ人間でありながら、文明を欲することもせず、自ら生活を効率化しようともしない原住民たちを憐れみ、ほのかに見下しながら、布教をしようとする宣教師たちが対峙していたのは、同じ人間でありながら、禽獣たちと同じ生き方をし続けている文明人を蔑んでいる原住民だった。この描写は傑作である。あらゆる人間的価値とされてきたものを相対化する言葉であろう。今でこそ、それぞれの価値をもって人は生きてるんだから、ちがう立場の人がとやかく言うことじゃないんじゃねぇの?と言うのが普通の意見として、迎えられるが、そういう思考形式が浸透したのも、この原住民の一言の役割が大きかったのではないか、と勝手に思う。


P338 それゆえムバヤ族は、自分たちの矛盾を解決する機会を、中略、もたなかった。~ムバヤ族はこの救済法を意識することも、それを生活の中に取り入れることもできないままに、それを夢見ることを始めたのだ。彼らの習俗の先例に反するような直接的な形ではなく、移し替えら得れた形で、無害な外見を装って、すなわち彼らの芸術においてである。もしこの分析が正しいとすれば、社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現できたはずの諸制度を象徴的にあらわす方法を、飽くことのない情熱で探し求める一社会の幻覚として、最終的にはカデュベオ族の女の絵画芸術を解釈し、その芸術の神秘な魅惑や一見何の根拠もないように思われるその錯綜ぶりを説明すべきであろう。素晴らしい文明ではないか、そのクイーンたちは化粧で夢を囲むのだ。化粧は決して到達できない黄金の時を叙述する神聖文字であり、法典がないので、クイーンたちは身を飾ってそのときを祝福するのである。そして、自らの裸体を現すように、黄金の時のヴェールを外して見せるのだ。

この論理展開には鳥肌が立った。レヴィストロースは、この前の段階で、女の絵(化粧)の紋様を長々と分析しているのだ。二元的幾何学模様が一度解体され、斜めに対象をもつような形で再構築される。対ではあるが完全に対称ではない様をくどくどと論じるのである。そこから、この考察へ飛んでいく。民族が繁栄し継続するためには、血族の交換が絶対条件であり、その交換方式が、同じ階級内のみで行われるか、異なる身分の女だが異なる族に属しているか、など、どの民族も似た形式をとっていた。それは機能(身分)に基づく対称性と役割(半族)に基づく非対称性を維持したものであった。その構造を保っていたことが、人間の生活が脈々と続けられてきた一因でもある。だが、ムバヤ族はそれをしなかった。しかし、ムバヤの女が夢見たのは、まさに対称性と非対称を2元的に包含した「人間としての生活」であった。だからこそ、人間は絵を描かなければならないのだ。2元的な対称性と非対称性を象徴した絵を体に刻みつけねばならなかったのだ。レヴィストロースの知の嗅覚、というのだろうか、異なる要素を結び付ける力は神がかっている。こんな考察だれが思いつくだろう。まさに知の巨人としか言いようがない。 最後はこれ


P250 数というこの問題にインドはおよそ三千年の前に直面し、カースト制度によって量を質に変換する方法を求めたのだった。それはつまり、人間集団を彼らが並び合って生きてゆくことが出来るように分化させるのである。インドはこの問題をもっと広い視野でつまり人間を超えて生命のすべての形態にまで問題を拡大して考えてさえいたのである。菜食の規則、カースト制と同じ配慮から想を得ている。すなわち、社会集団や動物の種が互いに侵害し合うのを防ぎ、他のものが敵対的な自由の行使を放棄することによって、各々に固有の自由を保っておこうとするのである。人間にとって、この大実験が失敗したことは悲劇だった。~共通に諮り得るものをもたないという意味で平等であり続けるという状態に歴史の流れの中でカーストが到達できなかったということであり、カーストの中に等質性という比較を可能にし、それゆえ身分制度が生まれるのを可能にするあの人を裏切る薬のひと匙が盛り込まれたということなのである。~中略~ヨーロッパが二十年来、その舞台になってきた一連の出来事は私にはもはや一民族一政策一集団の錯誤の結果とは思えないのである。私はそこに、むしろ終末世界へ向かう一つの予兆を観る。その真価は南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、我々もよほどの決意をしないかぎりおそらくそこから逃れられないだろうと思われるものである。なぜなら、この人間による人間の価値剥奪は蔓延しつつあるからだ。~アジアで私を恐れさせたものは、アジアが先行して示している、われわれの未来の姿であった。インディオのアメリカでは、私は、人間という種がその世界に対してまだ節度を保っており、自由を行使することと自由を現す徴との間に適切な関係が存在していた一時代の残照、インディオのアメリカにおいてすら果敢ない残照を、慈しむのである。

カースト制発祥のコスモポリタン的な合理性を指摘しつつ、その失敗を嘆く。人間に貴賎はない、と非難する前に、人口と自然が与える環境を勘定に入れて社会制度を考察すると、西洋がたどっている歴史との類似性が明るみになる。インドが限られた資源の中にカースト制を設けていたのは一定の合理性と一縷の希望をはらんでいた。しかし、その内実は一部の人間性を認めないことを担保としていたため、大失敗であった。一方、、西へ西へ航路を開き、土地を開墾し、工業を強制してきた西洋がぶち当たった問題もまさに、増えすぎた人口の中でいかに人々に自由を与えられるか、ということから発したのではなかったか。そこでは植民地の原住民たちが非人間として扱われていた。レヴィストロースは悲観しているのだろうか。だから、つかの間であっても、人間らしいつつましさを残して生活を続けるインディオを慈しまざるを得ないのであろう。どうすれば良かったか、ちゃんと回答も用意してある。


もし人間がみな人間として、だが違ったものとして、互いに認知し合いながら共存することに成功できるものならば、人間は人間性という比較可能な一目盛りを互いに拒みあることによって
それゆえ従属関係の中に自分たちを位置づけることによってもまた

達成できるのだ。これはきっと、原住民たちのカースト制、半族、婚姻関係のことを指しているのであろう。自由の行使としての人口増加、それにともなった自由の行使、歯止めの利かない歯車によって人間社会に節度を保った自由がなくなってしまった。だから、レヴィストロースは、かつての西洋社会の残照として彼らを慈しむのだ。 Ⅰだけでも、すごく濃い内容だ。人間や社会に対する考え方の新たな視点をいくつも提示してくれる。まさに古典の名作だなー。