「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

悲しき熱帯Ⅰ②

悲しき熱帯Ⅰに関する考察、2回目。

P114~ あるエスパニューラでは、1492年におよそ十万人はいたと思われる原住民が一世紀後にはもはや二百万人しかいなくなっていたが、彼らは天然痘や白人の攻撃によるよりは、むしろヨーロッパ文明に対する恐怖と嫌悪から死んでいったのである。中略、同じ頃、隣の島では、インディオはしきりに白人を捕えていた。インディオは白人を水に投げ込んで殺し、それから白人の体が腐るかどうか見るために、溺死体の周りに何週間も見張りに立った。これらの調査を比べてみて、二つの結論を導くことが出来る。白人は社会科学に頼っているが、インディオはむしろ自然科学を当てにしている。第二に、白人がインディオは獣だと宣言しているのに対し、インディオは白人が神かどうか疑ってみることで満足している。どちらもおなじように無知にも度付いているが、後者の遣り方のほうが、明らかに、より人間に値するものであった。

西洋社会が常識で新世界の原住民たちが野蛮である、という簡単な2項対立を俯瞰から見下ろす透徹した思考である。西洋社会が野蛮としている慣習を持つ彼らを殺すことが野蛮でなくて、何であろう。16世紀においては、そういう絶対的で頑迷な性格が大航海時代の推進力になっていたのだろうか。白人によるインディオ殺しは迷信や思いこみからくるため、社会科学的分析対象である、一方、インディオによる白人殺しは西洋社会が自らの優位性の絶対的なよりどころとしていたはずの自然科学に基づいている、という捻じれた構図が非常に皮肉で面白い。


P199 最後に、これほど多くの都市で、街を西に向かって駆り立て、東の地区に貧困と退廃を強いている作用の不思議な因子についても触れなければならない。おそらくこれは、太陽の動く方向は正であり、その逆の方向は負であるとう、そして一方は秩序を他方は無秩序を意味するという無意識の信仰を原初からしみ込ませた、あの宇宙のリズムの単なる表現なのであろう。

レヴィストロースの凄さはその知の体積である。縦と横と高さからなる知の空間が巨大過ぎるのである。人類が西へ西へ向かう過程、都市が西へ西へ大きな年月の流れの中で蠢く様を、上の様に考察した。非常に文学的ロマンを感じる論調である。

P201 もしわれわれが、人間としての体験のあるがままの諸条件を認め、さらに、人間的体験の枠組やリズムからわれわれは自分の意志で完全に自由にはなれないのだということを甘んじて認めれば、われわれはどれだけ疲弊や無用な苛立ちなしに済ませられるだろうか。音や匂いが色をもち、感情に目方があるように、空間はおのれに固有の様々な価値を持っている。~略~この探究は、学者にその開発がさらに豊かな発見をもたらしうるような、もっとも新しい領域を提供している。もしも魚が感覚の享楽に耽る通さながら、匂いに明るい匂いと暗い匂いを識別し、蜜蜂が光の強度を目方で分類するとしたら、画家や詩人や音楽家の作品も野蛮人の神話やもろもろの象徴も、知覚のより高級な一形式とは言えないまでも、すくなくとも最も根源的な形式として、われわれにうつることになるに違いない。それは知覚の真に普遍的な唯一の形であって、科学的思考というものはその鋭利な突端をなしているにすぎないのである。

科学的思考など規定されすぎた人間の周囲を突き刺す先端でしかない。知覚とは色が見え、音が匂い、光が聴こえる世界にまで開かれているのである。我々はその一端で満足しているに過ぎず、社会学者が、世界を開かせる役目をおっていると彼は言う。ここに構造主義的思考の根源的な発想が垣間見えるのである。 疲れたので、続く。