「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

悲しき熱帯Ⅰ①

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)/レヴィ=ストロース
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読むのに2カ月弱かかった・・・。 思想界に衝撃を与えた構造主義の原典と銘打たれたレヴィ=ストロースの名著である。 Ⅰは比較的スムーズに読み終えたのだけど、Ⅱを読む時間がなかなか取れず、こんなに時間がかかってしまった。 内容は時に読者を迷宮の中に誘うほど難解であるが、ほとんどは紀行文のように、彼が見聞した事実を淡々と文学的に記述していくスタイルなので読みにくくは無い。けれども、上下で700ページほどあるんだから、結構な覚悟がないと読めない本とは言えるかもしれない。 大阪に来て、十分に余裕を持って読書に時間をさけるようになったから、こういう専門書を読めたのである。これを幸せと言うんだな。 中公クラシックスのこの赤本はサイズとしても持ち運びやすい、なんとなくお洒落で気に入った。けども、著者や訳者の説明は本の末尾に置いた方が理解が深まるんじゃないかとも思う。いきなり前書きが長く難解な部分もあるため、ちょっとビビってしまう。訳は、修飾語がどこにかかっているのか判然としない個所がゴマンとあるが、レヴィストロースの力点がどこにあるのか読者に任せるという点を狙っているのであれば、優れているのかもしれない。でも、あの文学的で哲学的な文章は、訳者が巧いから伝わってくると言えるのだろう。時々病みつきになるほどだ。 構成は細かく章だてられていて、ここまで読もうと決めて読みやすい。そして、名著のことば、という解説分もしおりがわりになって良く理解を助けてくれた。 時間軸や空間軸から逃れている本なので、印象的だった個所をまとめていくしかここに記すべきモノは無い気がする。あまりに難解なので、自分の理解が合っている自信が全くない。全然合っていないのかもしれない。でも思考の努力の痕跡を残すことも大事なので、ここに記すのである。

P81 ベルクソン主義-それは様々な存在や事物を一旦粥のような乗他に還元してしまった上で、それらの物の言うに言われぬ本性をよりよく取り出そうとするのであるが-の信条や不当前提の代わりに、私は、存在や事物は、その輪郭-存在や事物相互の境界を明らかにし、それらのものに理解しうる一つの構造を与えるような輪郭-の明確さをうしなわないままで固有の価値を持ち続けうる、ということを知った。認識は、断念や物々交換の上に成り立っているのではなく、「真の」形相、すなわち、私の思考が所有しているものと符合するような様相を選びとることのうちに存しているのである。それは新カント派の学者が主張するように、私の思考が事物の上に、ある不可避の制約をおよぼすからではまったくなく、むしろ、私の思考がそれ自体として一つの対象だからである。

おそらくここで言わんとしていることは、存在が認識を規定しいるわけでもなく、認識が存在より先だってあるわけでもない、認識しようとしている対象も認識している思考それ自身も、互いに「この世界」の影響下にあるということ。

P84 研究者は、みたところ到底人の理解を許しそうもない現象の前にいきなり立たされる。どちらの場合にも、彼は込み入った状況の含む諸要素の一覧表を作り、それをひょうかするために感受性、勘、鑑識力といった彼の資質の繊細な部分を精一杯働かせることを求められる、それでいて、或る現象の総体に導き入れられる、一見ふと適当とも見える秩序は偶然のものでも思惟の恣意の産物でもないのである。歴史家の取り扱う歴史とは異なり、地質学者の対象とする歴史も精神分析学者のそれも、物的世界、心的世界の基礎をなしているいくつかの属性を活人画にいくらか似たやり方で、時間の中に投影しようとするのである。中略、他の領域では、これらの真実はまさに「法則」と呼ばれるのにふさわしいのである。これらすべての場合に審美的な好奇心を呼び起こすことが、私たちが認識に造作なく到達するのを可能にするのである。

いまの理解を超えた現象を前に人は、感情と論理を総動員する。理解とは彼の審美的欲求を満たした説明が成り立つことを言う。他の学問ではそれを法則と呼ぶのだ。万有引力の法則だって、落下する対象と観測する側の認識が相互に影響しあい、人間が納得するような形をとったものである。歴史家の扱う歴史が異なるのは、それが感受性に力点を置きすぎた学問だからだろうか。

P86 そして、探究によって三者が目指すところも同一である。すなわち、感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しもそこなうことなしに統合することを企てる、一種の『超理性論』である。

ここにレヴィストロースの目指す究極の知の在り方が表現されている。地質学、マルクス主義、精神分析学の三者が目指すところは、お互いを損ねることのない、対象と認識の統合なのである。しかし、ここからの説明が難解だ。現象学を嫌うのは体験と実在との間に連続性を求めるから、ということは超理性論とは、2つの不連続性を認めつつ、統合すること、だ。しかし、体験されたものを一旦拒否した後に現れる、一切の感傷を抜き去った客観的な総合とは何だろうか。実在に到達するためには体験を拒否しねばならない、のならこの超理性とはどこから始まるのだろう。・・・体験を拒否しなければならないのなら、答えは一つ、実在からしかない。体験を一切拒否した実在に体験を組み入れることによって真の実在に到達する、というロジックしかありえないだろう。さらに、実存主義に関しては、その主観性のひいきの為にこの理論を一蹴する。そして、哲学の役割をこう説明する 「存在を、私との関係においてでなく存在自身との関係において理解するということ」 存在と私の対置ではなく、存在そのものと私が存在しているそのこととの関係を理解する、それが哲学の役割だと言う意味だろうか。 レヴィストロースが民族学を志したのは、私が存在しえいるそのこと自信を考える学問として、民族学は立ち現われてくるからか。

P87 民族学は私に、或る知的満足をもたらしてくれる。歴史が、世界の歴史と私の歴史とを、その両極で結び合わせるように、民族学は、世界と私に共通の理法の覆いを一挙にはぎ取ってみせる。民族学は、人間の研究を私に勧めることによって私にあの懐疑を乗り越えさせてくれる。

民族学は、人間にとって意味のある差異や変化や法則を相対化する。意味を解体させられ、自分が理性的にとらえていた理論が、いかに自分の価値基準、感情、感性に捕らわれていたかを暴露してくれる。だから、民族学は超理性論の支柱になるべく学問なのである。 というところだろうか。 知の巨人の思考の片鱗を少しでも自分は味わえているのだろうか・・・と不安になりながら書いている。 あまりに多いので、何回かに分けなきゃならなくなってしまった・・・。 続きはまた今度。