「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

子供は判ってくれない

子どもは判ってくれない (文春文庫)/内田 樹
¥660
Amazon.co.jp

本屋の文庫コーナーへふらっといくと内田先生のまだ読んでない本が結構あることを知って、全て買ってしまった。 この本も目からうろこの発想てんこもり! そー、それが言いたかった!というところにドッグイヤーをつけまくったら、本がグチャグチャになってしまった。 一番印象的だったのは、「誰に向けているか判らない、間違っていない情報」についての序文。 何の情報量もない言葉が世の中あふれかえっている、本当にそう思う。 「迅速かつ慎重な議論を」とかで締めくくられる社説ばっかり、うんざり。 「議論を」じゃねぇーよ。言いっぱなしじゃねぇかよ。お前がやれ、お前が! 「具体的な道筋を描く作業に取り組むべき」とか「道筋をつける姿勢で臨んでほしい」とか「もう一度自らの原点を見つめなおすべきだ」とか、ちらっと今朝の新聞を観ただけで、こんなんばっかりだ。 んなことは判っているのである。 誰が聞いても間違っていないことなんて言ってもしょうがないのだ。そこには何の情報量もないのだから。 「あはあ行である」 という言説に何の情報量もないのと同じである。同語反復なのだから反証される可能性はない。その代わり、もたらす情報量もゼロなのだ。 「具体的な道筋を描く作業に取り組むべき」だなんて知っているのである。そのためにどうするかというお話をしているのである。この文章は「具体的な道筋を描く作業に取り組むためには具体的な道筋を描く作業に取り組むべきである」と言っているのである。読むのも時間の無駄だ。 反証されてもいいから、何か具体的な提言をしてみろ。 なんとなく間違っていない気がする言説よりも「圧倒的に間違っている言説」の方がまだ有益なのである。なぜなら、それは間違っているということが確認できたからである。そこから前に進めるからである。 これはうちのゼミの先生がよく言っていた言葉。 内田先生の本が面白いのは、かなり危ないことをずけんずけんに言ってのけるところにあると思う。だから読んでいて楽しい。 誰が読んでも何も感じない文章なんか、もう書かないで、よろしい。 そう、朝日新聞の記者に対して言っているのである。 日経新聞の記者に対して言っているのである。 いまはその二社しか読んでないからである。