「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

私家版・ユダヤ文化論

今日は仕事を午後から休んで浜省のライブに行く予定だったのに、チケットの支払い方法をクレジットカードだと思い込んでおり、払い込み忘れ。 まさかの、チケットキャンセルになってしまった。 行きたかったけど、先週行ったから、欲張るのはよそう・・・。 まだ行っていない人が行けることになるのならば、その方が良いかもしれない。 仕事の休みはキャンセルせず、午後は昼寝をしたり、カレーを煮たり、まったり。 時間があるので、ちょっと頭を使う本を扱おうと思う。

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)/内田 樹
¥788
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結構前に読んだんだけど、内容が難しいからちょっと記述は避けてきた。 早く書かないと忘れちゃうから、今日書く。 ユダヤ人とは国民国家構成員でも、人種でも、宗教共同体でもない という足場から、論を始める内田先生だけど、最終的にユダヤ人とはなにかを再定義する 内田先生のいうユダヤ人とは

そのつどすでに遅れて世界に登場するもの

私は遅れてここにやってきたので、この場所に受け容れられるものであることをその行動を通じて証明してみせなければならいと考える人間

なのである。 社会構築的にユダヤ人なるものが存在したわけでなく、「始原の遅れ」を引き受けた思考の持ち主である彼らがそれ以外の者達の欲望を促進したがゆえに、迫害を受けることになり、さらにそれがユダヤ人的なものを増幅させる結果にいたったということだろうか。 サルトルの定義するユダヤ

ユダヤ人とは単に行動するとかたんに思考するということができない。
ユダヤ人は行動する自分をみつめ、思考する自分をみつめる。

もしこのことができるのがユダヤ人のみなのだとすれば、他者の承認からのみ人間となれるものたちは、人間足り得ない。ただユダヤ人だけが人間なのである。 レヴィナスが求めるユダヤ人の聖性

聖性とは総じて他なるものには最優先権を譲らなければならないという確信のうちに存在するものです。それは開かれた扉の前で『お先にどうぞ』ということから始まって、他者の為に身代わりになって死ぬことまでをも含みます。

いわれなき有責性をみずから引き受ける人間。すべての責任を一身に引き受けるような人間のまったき成熟性を求める神。その神を崇め、独力で善を行いうる、神抜きで世界に正義をもたらしうる人間。 ユダヤ人とは人間が目指すべき人間像を体現している存在なのかもしれない。 これほどまでに知性的で道徳的な思考回路は他にはない。 いや、ユダヤ人が因習的に持っていた思考形態を知的で道徳的と呼んでいるかもしれない。 それへの憧れが、ユダヤ人を形作り、ユダヤ問題を構築するのだとしたら、その枠組みにとらわれている僕自身もユダヤ問題から逃れることはできない、ということになり、この本自体もユダヤ問題のひとつにからめとられてしまうというパラドックス。 すんごい面白い本だった。