「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

下流志向①

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)/内田 樹
¥550
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引き続き内田先生の本。 なぜ子どもたちは勉強をしないのか。なぜ若者は働かないのか。現代社会の仕組みからその原因を読み解く、全く新しい視点を提供してくれる良書だった。

一つ目 なぜ勉強しないのか。 これを勉強して何の役に立つの?
こんなこと勉強しても社会でどんな風に使うの?という問いを発したのはいつだったろうか・・・。たぶん、小学4年生くらいにはちょっとませた子はそんなこと言ってた気がする。初めてその問いを聞いたとき、少し衝撃を受けたように記憶している。(記憶の改ざんかもしれないけど)あぁ。確かに、そうだなぁ。 とぼんやり思った。

幼少時代に感じた、その確信は、ほとんど大学時代まで引きずることになったような気がする。 社会に出て役に立つか、立たないかというものさしで図れば、勉強する科目に濃淡を付けることができて、より効率よく時間を使える、というのも確かに一理あるし、賢い生き方かもしれない。でも、内田先生の言うこともまた一理あると思う。

つまり、勉強とはする前と後では全く違う自分になるためのプロセスである、勉強する前の自分が勉強後の自分の価値を判断する能力は原理上、絶対に持っていない、ということ。勉強する前の段階で勉強を放棄することは自分の未来を捨て値で投げ売りしているようなものである。

その例を母国語を使って説明している。日本語を身につけたら、どれだけ良いことがあるのか、を判断してから日本語を習得したわけじゃないでしょ?と。でも、分かる前と後じゃ全く違う自分になれたじゃないか、と。

僕は大学時代、政治思想を専攻していたんだけども「こんなことやって何の役に立つの?」という問いは、常に自分を含め、ゼミの誰かしらから発信されていた。その度、先生は収入には直結しないとが、と前置きした上で

「問いを立て、自分の悟性を働かせて考え、解答を見つけようとする姿勢は、これから生きていく上でも絶対に必要なことだ。支配的学説や権威に惑わされず、自分自身の頭で考えられることが「自由」の意味だと思う。だから、政治思想は何の役にも立つ。」

と言っていた。

今思うと、本当にその通りだったなと思う。ゼミに入る前と卒業した後では、全く違う自分になっていたと思うからである。かなり、キツかったけど、世界の見方も変わったし、こんな難しい本読んで卒論も自分で考えて書いたぜっていう自信がついた。本当に勉強して良かったと思う。 そして、もっと勉強したい、という気持ちを持てたのが一番大切なことだったかもしれない。 勉強する前では判断できないことを判断するべきじゃないとは言っても、難しい勉強って本当に苦行だから、それに耐え忍ぶにはよっぽどの体力と確信がいるんだろう。勉強した後に出会える一回り大きな自由を手に入れた自分を想像できるから、勉強することができる。でも、その確信は実体験として経験した人にしか持てないものかもしれない。だからこそ、幼少期に勉強を放棄した人は分からないまま時を過ごしていく。自分で自分を「不自由」という名の鎖に繋いだままにしているのである。

そして、なぜ「これを勉強して何の役に立つの?」という問いが生まれるのか、という問題なんだけど、それを「等価交換」という概念を使ってうまーく説明してくれる。つまり、何の役に立つの? という問いは どう収入に結び付くの? という問いに繋がっている。そこには経済合理性至上主義が伏流しているのだ。

何の役に立つの?と聞くということは役に立たなければ、勉強しないのだ。言いかえれば金にならなければやらない、ということ。それは子どもたちが勉強を教師との取引だと認識しているからである。子どもたちは「苦役に耐える」という対価を払い、先生たちは「金になる知識」を教える。それが等価にならなければ、この取引は成立しないのだ。そしてそれが成立するかどうかの判断は、経済合理性を盲信している現在の価値基準だけをもってなされてしまう。

最初の問いも経済合理性から生まれた発想だし、その後の判断も経済合理的な基準にのっとっている。まさに合理的経済人モデル!じゃあ、なんで現代の子どもたちはこんなに金金金なの?っていうと、内田先生は「最初の社会参画の場が消費者主体だったから」
というところに原因を求める。

昔は親の手伝いとかをして、だんだん認められるというプロセスをしていった。そこには等価交換なんて条件を成立しない、無償の贈与をされた側は労働主体として社会に参画しなくては生きていけなかった。でも、今は家で手伝える仕事なんてないし、そこら中にスーパーやコンビニがある。子供も立派なマーケットの担い役として扱われている。よって、現代の子どもたちの最初の社会参加の役割が消費主体。お金を持っていさえすれば、相手がだれであろうと基本的には同一の商品やサービスがもたらされる。他には何も出来ない人でも、消費主体としてだけは歓迎される。そこには一種の全能感が生まれるわけだ。

確かに、消費主体の全能感というのは本当に半端じゃない。マジで半端じゃない!! 「俺は金をもってんだぞ。なんだその態度は!」という態度でも労働主体側は「どうもすいません、お客様」とペコペコするしかない。相手が自分に財貨をもたらす消費主体じゃなかったら、どうなるか。「俺は金はねぇから何も買えねぇぞ。なんだその態度は!」なんて奴がいたら、誰も相手にされないだろう。ただ嫌われるだけである。

他人に対してそんな態度をとる奴は嫌われるのだ。自分に不快な感情しか与えないし、それに気づかないほど馬鹿であるから、この人と関わっても人生を面白くしてくることはないだろう、と判断されるからだ。

でも、消費主体として立ち現われる時にだけは(表向きには)歓迎されてしまうから恐ろしい。金さえもっていれば、どんなに偉そうにしても、どんなに人間として尊敬できなくても、上に立てるっていうのが経済合理性が瀰漫した社会の特性だ。もっと、内面的な成熟とか、人にどれだけ優しくできるか、とかが判断基準だったら、うえみたいなやつらはすぐに消えるんだけど、そういう判断って数値化できないからすごく難しいんだよね。経済合理性ってのは超簡単な社会のものさしなんだよな。お金だもん。数値化して比べられて、目の前で示すことができるもん。 消費主体の恐ろしさっては日々身をもって体験しているから分かるけど、でもここで内田先生の意見に同意できない点がある。子どもたちが消費主体として教育の場に参画するのは別に「最初の社会参画の場が消費主体だったから」ではないと思う。

最初がどうとかは個人の人格を方向づけるほど大きな影響はないと思う。だって、覚えてないし、「ほら、100円あるから、チョコよこせ、おい、態度悪かったら買わんぞ」みたいな感じで主体を立ち上げるわけじゃないから。最初はビクビクして、本当にこれで買えるのかな・・・買うのはこれであってるかな・・・子どもはだめっていわれないかな・・・と不安一杯で消費主体体験を始めるのだ。そこで成功して、やっと「あ、これで良かったんだ。次も同じようにやればうまくいくんだ」と自分の行動を振り返って事後的に自分の消費主体体験を決定するんじゃないのかな。うまく行かなかったら消費にならないから、消費主体の立ち上げに失敗している訳だし。「でも、違う店や物を買うときはどうするんだろ」とどんどん消費体験を重ねないと全能感を確信することができない。これこそ消費体験の積み重ねによる「勉強」を必要とする。だから、消費主体がいきなり子どもたちの全能感を植え付けるとは考えにくいと思われる。じゃあ、なんで子どもたちが教育の場に出るときには既に消費主体が完成されているのかって言うと、それは幼少時代の家事手伝いとか、コンビニの普及とか、そんなんじゃなく・・・消費主体としての親の行動を見ているから。なんだと思う。

つまり、消費主体として親が酷いもんなのである。モンスターペアレントとか問題になってるけど、それも消費主体として立ち会われる親がその全能感ゆえに全てを思い通りにしようとむちゃくちゃな要望をつきつけてくることだ。昔はそんな問題なかったとするならば・・・現代は消費主体が強すぎるのである。買う側をたて過ぎるからこんなことになったんじゃないか、と僕は思う。

海外とか行くとスーパーの店員とか座ってるし、お辞儀なんてしないし、愛想も悪い。ツアーだって、時間には遅れてくるし、仕事は全体的に適当だ。日本的にはあり得ないことがいっぱいある。でもちゃんと世の中回ってる。日本はお客様を大事にしすぎなんじゃないの。お客様へのおもてなしだとか、誠意を伝えるとかさぁ。お客様は神様ですなんて言葉があるし・・・。

それは、資本主義社会の中の競争に打ち勝つために生まれた立派な戦略だったんだろうよ。同じもん買うなら気分良くさせてくれる方が良いし。気分いいなら高く買っても良いと思ってくれる人がいるなら、その分利益も多く取れる。

僕の仮説。 日本は高度経済成長において、製品もサービスもいろんな業種業界業態で競争が激化した。その中で生き残るために打ち出した案が「お客様を気持ちよくさせる」という販売戦略である。人間誰でも自分を良く扱ってくれる人が好きだからこの戦略は大成功し、あらゆる消費の場へ超スピードで浸透していった。世界2位の経済大国になれたことの代償は日本人の間で共有されるようになった新常識「消費主体とは全能である」という勘違いであった。

うん、あり得そう。 本当に我儘だもん、お客さんって。こんな人たちに依存して生きて行かなくちゃいけないのが情けない。でも、一億総消費主体化社会=一億総全能化社会であるから、教育の場でも、親として立ち会われなくてはならない場でも人々は「消費主体」として事物を査定し「全能者」として判断を下していく。そんな世界に生まれた子供たちが全能な消費主体を自分の姿なのだと信じ込んで教育の場に入っていくのは当然と言えば当然である。

まとめ ①最初に接した人間が消費主体として行動しているのを見る ↓ ②消費主体とは全能であると信じ込む ↓ ③学校という「苦役」と「勉強」の等価交換の場へ入る。 ↓ ④「勉強」は「苦役」に値しない。さらに消費主体で参画している自分の判断は誰にも覆すことができない ↓ ⑤勉強しない子どもの誕生 という構造なんじゃないかなー。 頭の体操になったー。 つづく。