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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

呪いの時代/内田樹

人文科学

月1冊を超えるペースで本を出し続けている内田先生、さすがにTwitterでもお疲れの色を見せておりました。この本は2008年から震災後くらいまでのエッセイをまとめたもので、結論としてはいつもと同じことを言っているのですが、この本は非常に面白かったです。内田先生の本のベスト3に入る内容でした。なるほど、こういう考えがあるのかと感心する箇所が2ページに一カ所はありました。こんなに本を出して、発信しているメッセージは一緒なのに、色んな角度から分析されるものだから、その度に感心させられます。これほどの知性を持った大人になりたい。

P19 僕たちは誰でも自分の知っていることの価値を過大評価し、自分の知らないことの価値を過小評価する傾向にあります。誰でもそうです。だから、学者にとっていちばん最初の仕事は、自分の所有する学術情報の価値を適切に評価することであるはずです。

この文章は態度の悪い学会の輩への批判ですが、自分にも恥ずかしいほど当てはまります。「そんなことも知らないの?」と人には言いたくなるけれど、人に同じことを言われると、めちゃくちゃ腹が立つものです。おそらくお互い自分の知っている情報の方が重要だと思っていて、その情報を重要と判断した自分の価値基準に誇りを感じていたりもするのです。だから、そんな場面で我々のするべきことは、相手の無知を糾弾することでなく、自分の価値基準が果たして全うだったのか、もう一度疑ってみる、ことです。どんなに馬鹿に見えても、どんなに理解不能に見えても、相手は相手のロジックでその考えにたどり着いているのです、なぜ自分が”相手と同じ考えにならなかったか”を考えることは非常に知的な活動でもあります。

P26 新しいものを創造するというのは、個人的であり、具体的なことです。それは個人名のタグのついた現物を人々の目の前に差し出して、その視線にさらし、評価の下るのを待つということです。

自分の創造したものというのはいわば自分の分身です。小説でも歌でも絵画でも料理でも、作って、相手に差し出したらそれはもう評価されるしかなくなります。作品が相手を評価することは出来ない。この関係は全くアンフェアなものです。だから私がこのブログで、小説や映画をけちょんけちょんに言うのは非常に卑怯なことです。相手は自分の分身を差し出して、ノーガードなのに、こちらはリングの外から弓矢でめった打ちにしているのですから。自分も分身をこの世に提示し、評価を待てば良いのです。というか、このブログの読者が全然増えないのが、その答えなんですけど・・・笑

P116 友人のベトナム青年が嘆いていましたけれど、寺院や城址に行っても、そこに掲げてある扁額が若者たちにはもう読めない。中略、彼らもまた2世代前の祖父母以前の世代については、もう書き残したものを読むことが出来ない。

アジア諸国へ行った時の違和感はここに通じるのかもしれない。アルファベットを使って言葉のやり取りをし、欧米ブランドを売り買いする、あれらの街。そこで感じる文化の薄っぺらさ、学術的にも、文学的にも、今まで存在していたはずの歴史の重さを感じさせない街。2世代間の断絶が、その原因なのかもしれない。もし日本人が夏目漱石の”心”を読めないとしたら、森鴎外の”舞姫”を読めないとしたら、どれだけ文化の空白を生み出すか、計り知れません。そんなことが、韓国でも、フィリピンでも、ベトナムでも、インドネシアでも起こってしまった。アジアが欧米に圧倒的なアドバンテージを許しているのはこれが原因なのかもしれません。

P138 配偶者が示す自分には理解出来ないさまざまな言動の背後に「主観的に合理的で首尾一貫した秩序」があることを予測し、それを推論するためには想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。もちろん配偶者を「全くランダムに思考し思いつきで行動している人」とおもいなすこともできないわけではありません。でも現実にはそんな人間は存在しません。あらゆる人間のあらゆる行動は「主観的には合理的で首尾一貫したロジック」によって貫かれているのです。中略、この仕事が開発する能力は単に結婚生活を支援するにとどまらず、きわめて汎用性の高いものです。というのは、一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的なパターンの発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです。中略、そして、全ての事象の背後には世界を整序する美しい諧調があるはずだという同じ確信のことを僕たちは「信仰」とも呼びます。つまり、ランダムに見える事象の背後に一定のパターンを見いだそうとする知的努力によって人はまっすぐに科学と宗教に向かうのです。

んー、お見事。一般には結婚生活の苦しみと言われている事象が、科学と宗教との真摯な向き合い方として美しく関連付けられました。これは結婚だけに限らず、両親にも友人も上司にも同僚にも後輩にも当てはまることです。自分では全く理解不可能な言動をする人にも「主観的には首尾一貫したロジック」を持っているという信憑を持っていれば、頭から否定することなく、まずは相手の思考を理解しようと試みるはず。そうすれば無為な争いを避けることが出来るし、理解し合える1%の可能性を毀損することなく汲み取れるかもしれない。これは人生全てに通じる大人の思想です。

P170 経済活動は有用な商品を手に入れることが目的であるのではありません。商品なんかなんだって良いんです。何でも良いから、ぐるぐるものが回れる様に社会的インフラを整備すること。それが経済活動の第一目的だろうというのが僕の考えです。
p171 僕たちはうっかりと「ビジネスで成功するためには、市民的成熟が必要である」というふうに考えている。でも、これ、ほんとうは話が逆なんじゃないかと僕は思うんです。中略、人間的活動の目的は、人間の成熟を促し、人間の共同的な関係をしっかりと基礎付けることであって、そのための技術的な迂回として、「じゃあさ、ひとつ『ものをぐるぐる回す』というゲームをみんなでやらないかという話になった。

ビジネスで成功するために人間的成熟が必要なのではなく、人間的成熟を達成するためにものをぐるぐる回すというゲーム=ビジネスをうまくやろう、というのが内田先生の考えです。とにかくものをぐるぐる回すというゲームを理解し、参加し、盛り上げるのに、今ほど恵まれた時代はないと言えるかもしません。誰でもネットを通じてビジネスを開始出来るし、自らものをぐるぐる回す発信者になれるのですから。そういう意味で、ネットを情報やものの流れを誘導する場として利用する動きは人間的成熟に資する良い潮流です。偶然ですが、先日高校時代の友人と集まった時「高価な資産を持たない一般の人達が、それぞれ保有しているものをぐるぐる回せる場を作ろう」という話で盛り上がりました。我々が目指そうとする場所は確かに間違っていないようです。

P199 贈与経済が成り立つための用件は、ですからある意味きわめてシンプルです。市民的に成熟していること。それだけです。自分より立場の弱い人達を含む相互扶助的ネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役であることを愉しむ様なマインドを持つ人であること。そういう人のところに選択的にリソースが集中するシステムが贈与経済のシステムです。

内田先生は今の自らの利益だけを最大化させる「交換経済」から、持つものが持たぬものに財をパスする「贈与経済」の時代が来ると予見します。何でこんな世界が望ましいのかはもう少し読み進めると分かってきます。

P208 例えば、世の中には10万人に一人と言った割合でしか存在しない優れた頭脳を持っている人達がいます。それはすばらしいことです。でも、才能の絶対量は評価に値しません。その才能を賦与されたことにどれほど深い返礼義務を感じているのか、それが人間的な意味での才能の評価基準です。天賦の才能を豊かに持ちながら、それを自己利益のためにだけ排他的に使用する人間を僕は人間としては評価することが出来ません。ぜんぜん。

なんと素晴らしい発想でしょうか。これこそが大人の思考。人間の能力は努力する能力も含めて、たまたま生得的に”与えられた”ものである、と。この”与えられた”という感触が彼をして返礼義務を感じさせ、世の中へ還元させていく。仰る通り、自分の能力を自分の欲望を満たすためだけに使っていいなどと誰が決めたのでしょうか。法律では”自分のためだけに利用してはいけない”と規定されていないせいで、”自分のためだけに利用しても良い”と考えている人が数多く居るのが現状です。「ちょっと相談に乗ってよ」と言えば「俺に何のメリットがあるの?」と返し、「これを運んで」と言えば「じゃああの件を頼むね」と応酬する。なんとさもしい世の中でしょうか。ビジネスなら良い。でもビジネスは人間を成熟させる一手段に過ぎないのだから、ビジネスを一歩離れたら、自分の出来ることを他人の代わりにやってあげれば良い、そうすればどんなに素晴らしい世の中になるだろう。

先ほどの贈与経済の話と合わせて、すでに才能のあるものが才能のないものを扶助するネットワークが形成されている場を思い出しました。お笑い界の○○軍団です。先日、千原ジュニア率いる千原ジュニア軍団の話題が世間を賑わせておりました。彼は後輩達の毎日の食事から旅行代まで全ての費用を負担し、文字通り食わしています。その費用年間2000〜3000万!千原ジュニアほどの才能があれば、それくらい稼いでいるのでしょう。彼の”与えられた”才能によって得た恩恵を、その周りの”何も持たない”人間達に贈与している。これぞ才能の正しい使い道、来るべき贈与経済の形!なのか・・・。

P224 中学生高校生が太宰治を熱愛し、耽読する理由は実はそれだと思うのです。子供達は社会的には非力な立場です。教化され訓練される側にいる。努力すれば良い評点をもらうことはできますけれど、家族からも教師からも「その知性に対する敬意」を受け取る機会はまずありません。そのような環境に慣れている少年少女が、太宰治の文章を読んだ時に「ガツン」と来るのは「この人は私を『知的に対等なもの』だと見なして描いている」という確信が持てるからです。「この人は他ならぬこの私に向かって言いたいことがあって、技巧の限りを尽くして、それを伝えようとしている」ということが確信されるからです。そんな大人と初めて会った。だから、子供達は太宰治に夢中になるのです。

太宰治”を”尾崎豊”に書き換えると、自分がなぜあそこまで尾崎に夢中になったのか、ようやく分かった気がしました。太宰と同様、尾崎は他ならぬ私に向かって、私にだけ伝えたいことを、敬意を持って、それも死にものぐるいで歌ってくれている様な気がしました。尾崎のことを一番分かっているのは自分(とみんな思っている)、尾崎の歌だけを聞き続けないと対等な相手として歌ってくれている尾崎に申し訳ない、身体は机に抑制され、思考は授業に中断される中高生が尾崎だけを特別と思う理由はこれだったのです。家でも次男で誰も相手にしてくれない、学校では運動部の奴らが幅を利かせて何の存在感も出せない、大人は何を喋っているのか分からない、誰も自分と対等に向き合ってくれる人が居ない。そんな時に尾崎が「俺はこう思うよ、お前もそうだろ」と語りかけてくれた。私にとって彼は本当に教祖でした。若者が尾崎の音楽から離れていくのは、敬意を持って自分と相対してくれる人間がひとりふたりと増えていくからかもしれません。それでも、中高生の抑圧された感性を解き放ってくれる音楽は尾崎を置いて他になく、文学は太宰しかありえないのだと思います。

P239 一神教の神を信じるというのは、神からの人間への絶えざる問いかけに絶句し、神が人間に課す終わりのない試練に打ちのめされ続けるということである。

一神教の神は絶対神です。たった一人で全知全能である神と相対する、ということのプレッシャーは多神教のそれの比ではありません。多神教の世界には、森の神、火の神、水の神からトイレの神までいる。火の神に足りたいところは水の神の力を借りて良い。例え神とは言え、そこには付け入る隙があり、人間が割って入る余地があります。それこそ神様が分化されればされるほど、それぞれの神様の管轄領域は矮小になり、ある能力では人間より劣るとすら言えます(怠惰の神様が人間より勤勉ではあるまい)。でも一神教は違います。神は全てを圧倒し、人間は神の前でただ絶句するほかありません。彼の要求は水の神様が「ちょっと火を貸して」というレベルとは違い、理解することすら絶対に不可能なものです。これほど峻烈な世界観を持ちながら、心を平穏に暮らしていくなど、人間に出来るのでしょうか。だからこそ知的アクロバシーを達成する歴史上の人物はみな一神教の世界から誕生したのでしょうか。

以上、長くなりましたが。学者の態度〜結婚生活の苦しみ〜一神教まで、幅広く網羅された、知性を更新させる最良書です。何度も読み返そうと思います。