「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

暇と退屈の倫理学/國分功一郎

この本は、最高に面白いです。早くも2014年最高の読書体験をしてしまったかもしれません。

暇と退屈が人生において、どれだけ重大な問題をはらんでいるかを徹底的に突き詰めて、考えます。人間は暇と退屈を恐れる。それも尋常じゃない仕方で。

暇と退屈に対して、どうやって向き合って生きるべきか、という問い対する回答を様々な理路から導き出す良書です。

p43 ならば次の様に言うことも出来るはずだ。退屈する人間は苦しみや負荷を求める、と。

暇とはやることがないという客観的状態のこと。退屈とは不安や幸せとかと同様、主観的な心理状態のことを指します。人間がウサギ狩りをするのは、ウサギが欲しいからじゃない。ウサギを狩れないかもしれないという不安と取れたときの幸福感の中で、退屈を紛らわしたいのだ。ビリヤードをやるのは、玉を穴に入れたいからじゃない。使い辛い棒をあえて使うことによって技術的負荷を乗せ、達成感を得たいのだ。つまり、人間は簡単な作業や、恵まれた境遇だけでは満足出来ないのです。苦しみや負荷に足を踏み入れるリスクを取らないと、退屈と感じてしまうのだから。

p56 幸福であるとは、熱意をもった生活を送れることだーこれがラッセルの答えだ

退屈では人は幸せになれません。幸せとは熱意をもって様々な事物に反応しながら生活を送ることです。本書の結論は、この大哲学者ラッセルの答えに尾ひれを付けていく行程になっていきます。

ここから退屈に関する考察が展開されるのですが、備忘録として、本書の結論を簡潔にまとめ、最後に少し反論して締めます。

ハイデガーによれば、退屈には三つの形式がある。 1、目的地に行くための電車がくるまであと4時間もある。周りには何もない。退屈だ。 2、パーティーに行った。食事も美味しく、美しい音楽も聴いた、会話も楽しかった。帰宅するとふと気づく、本当は退屈していたのだ、と。 3、なんとなく退屈だ。

p305 将来を思い悩む大学生にとって、自分に何ができるか、どんな仕事があるか、そういったことを考えるのは苦しい。しかし何をしていいか分からない。そんなとき「なんとなく退屈だ」と言う声が響いてくる。それにはとても耐えられない。だからそれよりも大きく鳴り響いている別の声を探す。たとえば「資格がなければ社会では認めてもらえない」「資格を取っておけば安心だ」と言う世間の声。この大きく鳴り響いている声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。そうして、資格取得の決断を下す。決断してしまえば本当に快適である。資格試験の奴隷であることはこの上なく楽だ。しかも、世間からは一生懸命頑張っているねと誉めてもらえる。中略、ハイデガーはそうした在り方をさして「狂気」と言ったのだった。それは、好きで物事に打ち込むのとは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。

この一節は秀逸です。誰しもが経験したことがあるんじゃないでしょうか。私も何度、資格と言う言葉に踊らされたか。毎年年初に流れまくるユーキャンのCMも全部この流れを踏襲しています。「私ってこのまま何となく過ごして良いのかな」という心の声が流れ、資格の為に勉強して、毎日を充実させようと喧伝しているのです。今年は水川あさみですね。

これが、ハイデガーの言う1と3の退屈形式ループなのです。なんとなく退屈だという声から逃れるために、ある目標を設定して、そこに向けて無我夢中に邁進しようとする。すると、いつか障害となるものに遭遇し、目標と関係のない時間を過ごさなくてはならない時が来る、そこで人は初めて1の退屈を経験するのです。

p330 人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作り出すことで退屈してしまう。中略、だからその退屈を何となくごまかせる様な気晴らしを行う。
p335 人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと不法侵入を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することが出来る。

環世界という術語は本の中で詳しく書かれていて、非常に面白いのですが、ここでは簡単に「価値観」と訳してもらえば、分かりやすいかもしれません。内田先生は勉強を「学ぶ前の自分の度量衡では計れない価値をはかれるようになるダイナミックなプロセスである」と言っていますが、この環世界の考え方はそれを拡大したものです。「生きるとは今の自分の価値観でははかれないものと出会い、感動し、熱中し、退屈していくダイナミックなプロセスである」と。

だから、人は自分の感知する世界を狭めるべきでない。つまり、2の退屈な生き方、談笑し、芸術に触れ、人とふれ合い、自分の環世界が躍動しながらも、退屈していく。そのプロセスが、全き人間的な生き方なのではないのか。

私はこの結論を非常に気に入ったし、それこそ自分の環世界が広がったような気がしました。資格に熱中する退屈な学生のくだりはもちろん、毎日の体調でスコアが乱高下するゴルフに男達が熱中するのも、納得がいきました。

ただ、結論の最後だけが聞き捨てなりませんでした。

p356 それは暇と退屈の倫理学の次なる課題を呼び起こすだろう。すなわち、どうすれば皆が暇になれるか、皆に暇を許す社会が訪れるかと言う問いだ。

社会をどう変革し、自分以外の人間に暇をもたらしうるか。この問いは必ず、社会運動と結びつき、人間達を1の退屈へ、つまり狂気と奴隷の世界に導くことでしょう。それが共産主義運動でなくて、何であるか。

暇と退屈の倫理学は、徹底的に自分の中で問われ、回答するべきもので、それを他者へ広げていく使命を帯びると、途端に自己矛盾に陥る脆い思想です。

人生とは何かを考える上で、良質なテーマを与えてくれる本でした。 國分功一郎さん、最近よく聞く名前ですが、もっと色んな本を読んでみたくなりました。