「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

白痴

本棚を片付けようシリーズです。他の本と併読していたとは言え、読み終えるのに3ヶ月はかかりました。ドストエフスキーの長編作『白痴』です。上下巻でおよそ1400ページ。しかも、余白ほとんどなしでビッチリ文字が詰まっています。もう、読みにくいのなんのって・・・。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』では、感じない不思議な違和感が読者にまとわりついてくる、何とも一筋縄ではいかない作品です。

小さい頃から読書をした方が良い理由の一つに、小さい方が感受性が涵養されやすいから、というのがあります。朝起きて、会社に行って、夜、家に帰って飯食って。土日はパチンコかゴルフ、という生活に慣れてしまってから読書体験を始めても、アルプスの少女の恋心に涙したり、起きたら蠅になっていた男の心情に同情したりすることが難しくなるからです。そういう人はどうしても、企業小説や、ビジネスハウツー本的な小説(もしドラとか)ばかりを選択的に読む事になってしまうでしょう。それでは、人生寂しい。もっといろんな人の人生を追体験できるのが読書の素晴らしいところなんだから。早期にその感受性を鍛えておかねばならないのです。

多分に漏れず、私には、この『白痴』に関して、共感したり、空気の中にとけ込むような読書体験を得る事ができませんでした。もしかしたらもっと若い頃に読んでいれば、異なる読み方が出来たのかもしれませんが。

150年前のロシアの上流階級の人たちが、どんな風に語らい、どんなことに美徳を感じ、どんなことを野卑と感じるのか、2000年代の平凡な日本のサラリーマンには理解しづらかったです。でも、それ自体が『白痴』という小説の狙いなのではないか、という思いにいたりました。それがどういう意味かちょっと説明します。

この物語の主人公、ムイシュキン公爵はスイスの精神療養所で育った世間知らずの純粋無垢な人なのです。ドストエフスキーは彼をして『無条件に美しい人』たらしめんとし、この小説を書きました。物語の中で、いろんな登場人物が彼の事を『バカ』と言います。でも、現代に生きる私の価値観からすると、彼が『バカ』である要素がなかなか読み取れないのです。バカどころか、歴史にも精通しているし、死に対して目を見張るような洞察を披露する場面もある。そんな彼がなぜ『バカ』と呼ばれるのか・・?どうやらその原因は『空気の読めなさ』にあるらしい。そんな時にそんな態度をとるものではない。こんな関係の人にこんな言葉を使ってはいけない、という暗黙のルール、それが療養所で育った彼には分からないのです。だから上流階級の会話に入った途端、彼がバカになってしまうのです。しかし、それは読者にも言える事なのです。これを読んでいるあなた(というか私だけか?)は公爵がなぜバカなのか分からない、そのことが何よりあなたがバカである証拠となります。なぜ婦人や娘達が公爵を笑っているのか分からない。なぜ笑われているの分からないその事によって、この場の空気から一歩遅れる。読者の立場は公爵の置かれた立場と重なり、ロシア的因習に生きる彼らからバカと呼ばれる『白痴』状態を追体験できる訳です。

私からすると、公爵よりも、その他の登場人物の方がよっぽどの「バカ」なのです。 会話の途中でいきなり『もうたくさん!もうたくさんよ!』とヒステリーに叫ぶリザヴェータ婦人の方が空気が読めないと感じるし、いきなり自分が書いた手紙を夜会の途中で1時間も読み上げるイポリートも変人だ。自分の道徳観で数々の人間に迷惑をかけるナスターシャも、それを甘んじて受け入れていたロゴージンも、「嫌い嫌い」と言い続けていたのにいつの間に公爵に恋していたアグラーヤも、騙そうとしていた相手に全てをさらけ出して謝る事が癖になっているレーべジェフも、みんなみんな空気の読めない変人ばかりでした。

むしろ、公爵ほど素の人間もいないんじゃないか。確かに素直で純粋な面が強く押し出されているけれども、嫉妬もするし、嘲笑もする、言い訳もするし、嘘もつく、友達の女を取ろうとするし、愛してくれている人を目の前で裏切ったりもする普通の気の弱い青年でした。ドストエフスキーはこの小説で『無条件に美しい人間』を描く事ができたのでしょうか??僕にはその策略は失敗したと思います。エゴイストと粗暴さの権化として書かれたロゴージンもそこまで分からない奴ではない。嫉妬と虚栄心の強い、普通の男でした。 『無条件に美しい人』と言われると『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャの方がふさわしい。 『エゴと粗暴の権化』と言われるとドミートリィの方がそれに近い。 ドストエフスキーが『白痴』で目指したのは、『無条件に美しい人』を描く事ではなく、どこにでもいる平凡な人間が『白痴』と呼ばれ破滅していく、そのことだったのではないか、と感じました。

もの凄く大勢の登場人物が出ますが、読み終えてみると誰もが愛おしい。粗暴で野卑で自己中心的で、それでいて優しいから、誰もが傷ついていく。おそらく『白痴』なのは公爵だけではなく、ナスターシャであり、ロゴージンであり、アグラーヤであり、読者自身なのでしょう。あまりに普通すぎる彼らが繰りなす支離滅裂な行動に、『白痴』で『美しい』彼らの自己中心的な行動に、誰もがどこか共鳴してしまうから、この小説は時間や空間を超えて、世界的な普遍性を持っているのです。