「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

勉強の哲学 来たるべきバカのために 千葉雅也

読みやすくタメになる本です、

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

P20 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。

ここが本書のポイントです。勉強とは必ずしもいい事だらけな訳ではなく、勉強することによって失うこともある。知らなきゃよかった、知らないまま死んだ方が幸せなことがあるものです。幸福とは閉鎖のことです。勉強とは自らを解放することです。


卑近な例で行くと、一番最初に大麻覚せい剤を服用した人は「とても幸せ」だったことでしょう。こんなに気分が良くなって、幸せな気持ちになれるのか、と。四六時中でもラリッているのが幸せだった。でも、それらが人体に与える影響を勉強した途端、そんなことが出来なくなります。「待てよ、このままラリってたら、やばい終末が待っているな」と気づいてしまう。それが勉強の「ノリの悪さ」です。周りは「こんなに楽しいものを何で受け入れないんだ」とノリの悪い人を排除しようとするでしょう。でも勉強してしまったら、元のノリには戻れない。


公害も同じかもしれません。有毒ガスを垂れ流しながら莫大な利益を出している会社に勤めているとして、「こんなに儲かるんだから、どんどんやろう、商売ってなんて楽しいんだ」と周りは浮かれている。でも有毒ガスが近隣住民や環境に与える影響を勉強した途端、「こんなことしてたらダメだ」と周りを止める「浮いた存在」になってしまう。


同様のことが会社行って家に帰る生活の中でも起こりうる。上司の悪口ばかり言っている同僚に対して「逆の立場に立ったらその言い分がはおかしいよね」と言ってしまったり、カラオケでオールしようと言う流れの中で「徹夜が労働生産性にどれだけ悪影響化分かってる?」と諭したりする。クリスマスを素直に祝えなくなったり、バレンタインデーを百貨店のマーケティング戦略に踊らされているだけと批判したりする。いわゆる、そういう「つまらない奴」になるのが勉強です。

P35 たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴは箱のなかになる」と、非現実的なことを言うことも出来る。「ここにはクジラがいる」ということさえ出来る。何でも「言えるには言える」わけです。中略、こうした言語の自由さにあらためて驚いてほしいのです。

これはウィトゲンシュタインの論理空間に対応する説明です。「私は深田恭子と付き合っている」と言えることの凄さ!現実に付き合うにはめちゃくちゃ大変です。出逢って、興味を持ってもらって、愛の告白をして、承諾を得なくてはならない。とても無理だ。現実にはありえない。現実に会えないことでも、言うことはさらっと出来る。論理空間としては「私は深田恭子と付き合える」のです。

P51 勉強をするさなかでは、言葉への違和感が、可能性の空間としての言語のヴァーチャル・リアリティを開くのです。

さきほど「論理空間」という言葉を使いました。使い慣れている人にとってはどうってことない言葉ですが、初めて聞いた人には違和感があることでしょう。論理と空間?どゆこと?例を聞いていくと「なるほど、言葉で表現できる、可能性の世界のことね」と理解に至る。その言葉が身体に馴染んできて、ようやく論理空間と現実という対比構造が浮き彫りになります。そこからさらに、論理空間の無限の可能性に驚き、現実が一つの選択肢として目の前に存在することに驚愕する。その体験が勉強なのです。

P53 一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、特定の環境のノリと癒着していない別の可能性を考えられるようになることである。

P57 深く勉強するとは言語偏重の人になることである。

まずは言語があり、そこから初めて現実以外の可能性に対して考えが広がる、という意味で、勉強とは言語偏重である、と言えるわけです。では、現実の可能性を広げるための言語とはどうやって生み出されるのかというのが、本書の肝となる議論です。千葉雅也はこう言います。


P64 ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。

アイロニーとは共通のノリを破壊する思考パターンです。例を言うと1年ほど前に話題になった壇密と久米博のやり取りが適格かもしれません。最近の若者の恋愛は食事に行っても、ラブホに行っても何でもかんでも男女で割り勘をするのが当たり前という話題の中で久米博が壇密に「僕と君がラブホに行ったらどっちが払う?」といやらしい顔して聞くわけです。ここでは男と女がホテル代をどっちが払うのか世代によって変わるのかな、それを確かめようか、という共通のノリがあるわけです。実際には久米博がそういうノリだった訳です。恋愛心理テクで言うとこういう質問をすると「そもそも一緒にラブホに行くか」という選択肢がすっ飛ばされて、「ラブホに行った後、どちらが支払いをするか」という興味に意向するので、ラブホに誘いやすくなる、みたいな効果があるらしいです。「朝一緒に起きたら、朝ごはんはパンかご飯どっち食べたい?」という質問も有効です。話がそれましたが、壇密はそんな久米博の邪な意図満載の質問に対して「文春が払うと思います」と応えた訳です。これがアイロニーです。「どっちが支払うのかな?」というノリに対して、「そもそもお前とラブホに行くということは誰かの差し金でしかありえず、その結果、お前は破滅するんだよ」と応えている訳です。こうなったら久米博のいやらしい意図も粉砕され、壇密と美味しい思いができるかもという想像も霧散し、世代間のホテル代の負担の傾向の話題も全て吹っ飛んでしまう。これがノリの悪さであり、勉強の効果なのです。ノリ的には「んも~、久米さんのエッチ!」や「久米さんが払ってくださいよー」で良かったわけです。でもノリをぶっ壊すアイロニーの方がこの場合は爽快でしたね。ある意味、勉強と言うのは現在の嫌な状況をぶっ壊す効果があると言えるのかも知れません。


つづいてはボケ=ユーモアです。これはノリを破壊するのではなく、ノリを足していく思考パターンと言えるかもしれません。ワイドナショーの松本の発言はいつもユーモアに満ちています。松本という人は常に違う見方を提供できる人だから面白いのですね。最近では、アキラ100%BPOから批判を受けているというニュース。他のコメンテーターは「出ちゃったら批判するべき」とか「そもそも面白くない」とか当たり前のことを言う訳です。そこで最後に松本が「絶対に出さないと言う芸なんだから、むしろ一番倫理観がある」と言ってのけました。これこそ発想の転換ですね。

私が一番笑ったのは自転車のサドルが昔は良く盗まれた、という話題の中で、「なんで盗むのかね」とか「別にお金にならないでしょ」とか発言が飛び交う中で、松本が放った一言。「そもそも世界にサドルが一個足りないんじゃないか」

これはサドルがないと困るという共通のノリは壊さずに「元々サドルが一個足りない世界で起こる現象」を想起させました。天才のそれですね。


では天才に近づくために、どうやって勉強すれば良いのかと言うと。

P185 勉強の足場とすべきは「専門書」です。

とあります。
専門書と言うのは数々の批判に耐え、長年読み継がれてきた文献を参照に厳密に書かれたものなので、足場としやすいのです。稲盛和夫が「努力が報われるのが宇宙の法則である」と言っている本は専門書ではありません。一般書と言います。このような本からは勇気をもらうことはありますが、正しさは稲盛和夫1人の経験からしか担保されていません。やはり専門書を読みなおそう、と私も決意しました。


勉強の効用を分かりやすく構造化してくれる良書です。この本は準専門書と一般書の間の様な位置付けなので、勉強の開始にはぴったりです。

次はウィトゲンシュタインを読む!!