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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

本が消えてから

元々このブログは読んだ本の内容を忘れないようにするために初めてものです。つまり、読書は私の生活の一部にある訳です。毎年50~60冊くらい本を読み、すごく面白かったと思える本とは年間に10~20冊出会えるものです。

結婚するまではつまらなかった本はすぐに売り、面白かった本は本棚に保管してあったのですが、結婚してから妻が本棚を家に置くことを強烈に拒否しました。収納、つまりクローゼット類が沢山があるのだから、そこにしまえば良い、というのです。

結婚当初、保管をするだけならそうだなと思い、その提案を受け入れました。私の愛書は学生時代から残っているものを含めると300冊以上ありましたが、それらは丁寧に段ボールに箱詰めされ、クローゼットに収まることになりました。


一方、本というのは「自分で何を求めているか分からない時に適切な言葉を投げてくれる」ところに価値があるのです。だって自分でその言葉がわかっているのなら、自分で思い出したり、書いたりすればいいんだから。私は本からの言葉の投げかけを期待して、本を保管し続けていた訳です。本棚に置いてある時は、それが適切に機能しました。何も考えたくない時には土屋賢二の本が私に「読んでみる?」と語りかけてくれるし、仕事でモヤモヤした時は楠木さんの本が「読みたいようにしてください」という目で見てくる。人生に悩んだ時は内田先生の本を適当に本棚から抜き出すと適切な言葉がページから浮き上がってきたりする。

でも、本がクローゼットの中の段ボールに収納されてしまうと、それがぱったりとなくなりました。本からの言葉の投げかけが聞こえなくなるのです。クローゼットを空けて、何列にもなっている段ボールから一冊一冊取り出していく作業の内に疲弊し、何を求めているのかが分からなくなる。どういう本が適切なのかなんとなくの検討は付いていても、段ボールのせいでそこにたどり着けない。


結局本を読み返すことがなくなり、去年の年末、私は本を捨てました。大量に捨てました。270冊くらい。


そして、最近心が弱った時、本に頼りたくなった時、からっぽの部屋を見て唖然とします。ここにはもう私を支えてくれる言葉は存在しない。どういう気持ちの時にどの辺の本を読めば良いのか、が分かる状態、というのは心の貯金の様なものだったと気づきました。


本棚を手放す。本を捨てる。とういことは今後の人生にもボディブローのようにジワジワ、マイナスの方向に効いてくるような気がします。妻とケンカしてでも本棚は手放すべきではなかった。


激しく後悔しています。