「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

普通と狂気  相模原殺傷事件の衝撃

相模原の津久井やまゆり園で起きた殺傷事件で世間がどよめいている。
現代社会の根幹を揺るがす大事件であると私は思う。


それは犠牲者が19人で戦後最大人数の犠牲者が出たからではない。
貧困がとんでもない殺人鬼を生み出してしまったからではない。

この殺人事件に部外者はいないからである。


誰もが知っている。この世界には狂人がいる。
現代社会のシステムに馴染まない人を狂人と呼ぶことで、“狂人でない”という形で普通が定義されていることを。


電車の中であるきまわる人をみて、うっとうしいなぁと思う。
ひとりでキーキー騒いでいる年齢的には成人の人を街で見ると、不安な気持ちになる。


電車であれば、車両を変えるし、街で会えば、出来るだけ関わらない様にしようと思う。


彼らは普通ではない。狂人だと我々は思う。



まだ精神医学が発達していない世界では、彼らは神の子であり、悪魔の化身であった。
崇められ、恐れられることで、社会の役割を担っていた。

「そんなことをしていると悪魔の元へ連れて行くよ」
「悪い事に合わない様に神の子にご挨拶に行きましょう」

という形で。


あるいは貧困ゆえ「使えない人間」として排除されていた文化圏もあったろう。
ただかつては、普通の人でさえ、命の価値は軽く、身分や生まれによって命が無下にされていた。
口減らしのために赤子が殺されていたし、姥捨て山なんという文化もあった。


そして、現代。命の価値は圧倒的に高まった。命は地球よりも重い。
ただし「普通の人間の」という条件付きで。


現代社会は経済成長と合理化を金科玉条として、この方向に世の中を導かない人間を強烈に排除する方向に向かった。
その光の部分が「普通の人間の命」を大切にする文化・価値観の醸成である。
その陰の部分が「普通でない人間」を排除できるシステムの構築である。


我々は全員がこのシステムに参加し、強化に加担している。
全員がである。


あなたが普通に学校を卒業し、普通に就職し、普通に結婚しているなら。
普通に友人と食事をし、隣人と言葉を交わし、芸術に心を震わせているなら。
あなたは普通でない人間を排除しながら生きている。


小さい頃、小学校には必ず学年に一人は、少しおかしな子がいた。
私が住んでいた田舎では通学路にはかならず昼間からブラブラしている子供やオトナがいた。
彼らは空き地に座ってただお茶を飲んでいたり、棒を振り回したりしていた。


でも、中学になるといなくなった。
私立高校には一人もいないし、上場企業には絶対にいない。


でも、たしかに彼らはこの世のどこかに存在している。
感性がずれていたり、論理力が抜けていたり、感情のコントロールができなかったりしても生きている。生物としては生きていけるからだ。


でも、なぜか彼らと私は交じり合わない。同じセカイに生きているはずなのに、同じ世界に生きていない。それは我々が作るシステムが彼らを排除しているからに他ならない。


今回、犠牲になった人たちは、我々が電車や街で見かけただけで不安になる彼らではない。
彼らは施設にはいない。普通に暮らすことが認められた普通の人だ。


今回の犠牲者は、普通の人ではない。


なぜ彼らは施設にいたのか。
なぜ犠牲者の名前が公表されないのか。
なぜ親族は犠牲者の名前の公表を止めたいのか。
なぜ彼らの生活は税金で守られるのか。


それは我々が排除したからに他ならない。普通の世界を保つために。

狂気と普通の間で、仕事をする人間がいる。
いなければ、普通の世界は保たれない。

狂気と普通の間の世界とはどんな世界だろう。
人間性を否定されるような罵倒が飛び交い、常軌を逸した暴力と対峙し、嘔吐や汚物の処理をする仕事が待っているに違いない。


今回の事件はその間で、この世界のやり方に違和感を覚えた人間の犯行だった。
もし私が同じ境遇を生きていたら、狂気の世界と普通の世界をうまく分けて暮らすことが出来たと言い切れるか。
私には分からない。


これからも、ふとしたきっかけで、あなたが普通ではいられない世界が立ち現れるかもしれない。
彼は私かもしれなかったし、あなたかもしれなかった。
私やあなたが狂人と扱われる世界がどこかにあったかもしれないように。