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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

弱者は守るべきだけれども

コラム マジメな話

オタクに関する言説は炎上しやすいらしい。

 

kopelani.hatenablog.jp

おそらくネットは「オタク」と呼ばれてきた人たちがたくさん集まる世界だからだと思われます。逆にネットの世界とは相性の悪い古臭い世界、建設業とか農業とか、その辺の言説はなかなか話題に昇りにくい様な気がします。まぁそれはいいや。

 

私がこの記事を読んで感じた違和感について、考えを纏めたいと思います。私はこの記事の「オタク」に関する言及には全く興味がない。どうでも良い。マナーが悪い人がいるんだね、というだけの話。

 

じゃあ何がひっかかったかというと、

大人はその子供を優先的に遊ばせてあげる心があって然るべきだと私は思う。

の部分。

 

私はこのブログでも良く、「共同体は弱者を守るために存在し、弱者に手を差し伸べられるのが大人、みんな大人にならなくては」と言っています。(私のオリジナルの意見ではなく、内田樹先生の教えです)

 

たとえば、新入社員に一方的に説教する先輩社員とか、学生の就活ランキングをディスる社会人に対して「お前の価値観を押し付けるんじゃなくて、弱者目線で考えられる大人になれ」と私は思うのです。さきに社会で働いている先輩社員は強者。後からやってくる新入社員や学生は弱者。彼らが共同体に馴染めるように、課題を整理し、解決に導いてあげるのが強者の役目だと私は思う。弱者を守り、育てることによって、ようやく共同体は保たれる。共同体がないと誰も生きていけないんだから大事にしないと。

 

子供と社会の枠組みでも話は同じ。子供は弱者だから、優先的に食料や衣服や住居や教育や生活に必要なものを与えられるべき。それを大人が強奪するようでは、その共同体は終わってしまう、論理的に。

生きるか死ぬかの深刻な話では、そういう議論が成り立つと思うんだけど、問題は、生きるか死ぬかの話ではなく平時の場合です。平時の場合、どこまで大人が我慢して、子供に対して優先的に資源を提供すべきなのだろうか、そのことをちょっと考えたい。

上記オタク記事に関しては単純なマナー違反なので、異論はないのですが、
例えば大人と子供が同じラーメン屋の列に並んでいて、後ろに子供いたとする。大人のところでスープ切れになると分かったら、大人は子供にラーメンを譲るべきなのか?
大人が電車の席に座っていて、前に子供がやってきたら、大人は子供に席を譲るべきなのか?結構譲っている場面に出くわすよね・・・。
あとマンションの騒音問題。上の階に住む子供の足音がうるさかったら、下の階の人が我慢を続けなきゃいけないのか?最悪、引っ越すしかないのか。


大人が譲った方が美談になる、という単純な話でもないのです。特に電車の席を譲るのは、おかしい気がする。大人は子供に対してそこまで譲ってはいけないと私は思う。なぜなら、弱者と強者というのは場面によって変わるからです。

生きるか死ぬかの場面になれば、身体的にも精神的にも未熟な子供が弱者であることは間違いないけれども、電車やラーメンやゲーセンの行列では、”子供は弱者ではない”。1人の個人として扱うべきなんじゃないだろうか。。

 

子供だって立てるし、ラーメン食べれるし、ゲーム出来るのである。

 

個人対個人で譲るか譲らないかというのは一般化出来る問題ではなく、その時その時、その人たち同士の問題になり、他人が介入する話ではありません。どうぞ譲ったり譲らなかったりしてください。

 

でも、ことがマンションに騒音になるともっと話がやっかいで、
「子供だって静かに歩けるだろ、一人の個人だ」という意見もありながら「いやいや子供は走りたいんだよ、自分だって小さい時はそうやって迷惑をかけて育ったんやで」と諭し、「いや、私の家は一戸建てでした」みたいな不毛な議論が続くのです。まぁ、うちの話なんですけどね。

 

でも、家をめぐる議論は「衣食住」っていうくらい生活の根幹にかかわることだから、大人が我慢しなきゃいけないこと、の様な気がするよ。

と奥さんに言ったら、「私は絶対に許さない」と言いながら、机に立って天井をガンガン殴ってました。


誰が彼女を止められるのか。

 

私は家での絶対的弱者。誰か守って欲しい。