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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

椿姫/デュマ・フィス

 

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

 

 

中世版”セカチュー”というか、『世界の中心で愛を叫ぶ』が現代版『椿姫』なのかもしれません。つまり、この本は若い男女の純愛・悲愛を描いた小説です。

舞台は中世のパリ。マルグリットは年に1億円以上もかかる豪奢な暮らしをしている美貌の高級娼婦。アルマンは働かないでも食べていけるくらいの資産をもった遊休貴族。(この時代の西欧文学はそんなやつらばっかりだ)

マルグリットは何人もの”パパ”を抱えながら、贅沢の限りを尽くす生活を続けていましたが、アルマンの一途な愛にほだされ、人を愛する喜びに目覚めます。アルマンは高級娼婦であるマルグリットを幸せにするために、ギャンブルで金を作ったり、大切な遺産を譲渡したり、不器用ながらもマルグリットに尽くそうとします。それでも、高級娼婦であるマルグリットを信じきれない夜があり、思い出すだけでも恥ずかしい手紙を出してしまったり、相手の言動の裏の裏を読もうとして恥をかいたり、とにかく恋に浮かれている男にありがちな失敗を何度も犯すのです。

そんな彼らに待ち受けている結末はまさしく悲劇なのですが、純愛を貫いたという意味ではハッピーエンドとも言えるかもしれません。相手に恋をしながら別れることこそが恋を長続きさせる唯一の方法ですから。恋を成就させながら愛を失うことこそが本当の悲劇です。

彼らが乗り越えられなかった困難は現代の日本でもあちらこちらに聞かれる話です。先日、会社の同期会で結婚の話になったときも、同じような話が4組中3組ありました。古今東西で立ちはだかる問題なので、この問題設定にも、それなりの道理があると判断すべきです。もちろんマルグリットとアルマンにはこの困難を乗り越えるという選択肢もあった。でも、彼らは(というか彼女は)その選択をしなかった。なぜか。

これはバルトが指摘している愛よりも高次元の「承認」の欲求からくるものなのか。いや、私は違うと思う。マルグリットは自分の大切な人と「大切な人の大切な人」との関係が自分のせいで切れてしまうのが怖かったんじゃないかと思うのです。その恐怖は、自分の大切な人を失う恐怖と比例して大きくなるはず。つまり大切な人を愛せば愛すほど、この困難の壁は高くなってしまうのです。

だから、マルグリットもアルマンも”大切な人”と”大切な人の大切な人”を守ることが出来たのではなかろうかと思うのです。そういう意味では一方的な恋愛よりも高次元の愛のお話なのではないでしょうか。

絶賛恋愛中の青春男子にオススメです。
最後に彼らの一瞬の愛を切り抜いた一節をここに記します。最上の愛を感じられる瞬間はきっと一瞬にしかなく、その一瞬が永遠を宿すように感じられれば、それで良いのです。その一瞬が人生の全てなのだ。

過去は跡形もなくなり、未来は雲ひとつなく晴々としてきます。太陽はこの上なく貞淑な許嫁を照らすように、ぼくの恋人を照らしています。ぼくらはふたりきりで、ラマルティーヌの詩句を思い出させ、スキュドのメロディーを口ずさむためにわざわざつくられたのかと思えるような、あの魅力的な場所を散歩します。マルグリットは白いドレスを着て、ぼくの腕にもたれかかり、宵になると前夜に囁いたことをまた繰り返し語ってくれます。世界は遠くの方で勝手に営みを続け、ぼくらの青春と愛の絵図を影で汚すこともありません。その昼の熱い太陽が葉陰をとおしてもたらしてくれる夢とはそのようなものでしたが、小舟で着いた島の草地に長々と横たわったぼくは、以前の彼女を束縛していたあらゆる人間関係から解き放たれ、様々に想いを駆けめぐらせては見つかるすべての希望を拾い集めていたのです。