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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

あの根源的問題について③ 反哲学入門/木田元

コラム 死を考えるシリーズ 人文科学

 

反哲学入門 (新潮文庫)

反哲学入門 (新潮文庫)

 

 

死を考えるシリーズ3回目。
前回、「死を考える鍵は世界を主体/客体の二元論を相対化し、克服した先にある」という話になったかと思います。この世界認識をめぐる議論を深めてくれる本はないものかと、ぼーっと本棚を眺めていると、まさにうってつけの本がありました!こんなことってあるんですね。これは神様からの贈り物に違いありません。(神の克服のための本でもあるのですが)

この本は、間違いなく名著です。世界の成り立ちを説明してくれる本ではありませんが、”世界の成り立ちを先人たちはどう理解してきたか”を懇切丁寧に説明してくれる本です。悩める思春期の高校生から生きがいを失くした社会人まで、すべての人に読んでほしい一冊です。まずは哲学の説明から。

P25 プラトン以来西洋という文化圏では
(かなり時間をかけてのことですが)超自然的な原理を参照にして自然を見るという特異な思考様式が伝統になりました。先程言ったようにその原理の呼び名は様々に変わりますが、その思考様式だけは連綿と受け継がれます。それが「哲学」と呼ばれ、西洋の文化形成の軸になったのです。

P28 超自然的原理を設定して、それを参照にして自然をみるような考え方、つまり哲学を「超自然的思考」と呼ぶとすれば「自然」に包まれていき、そのなかで考える思考を「自然的思考」と呼んでも良さそうです。わたしが「反哲学」と呼んでいるのは、そうした「自然的思考」のことなんです。

この本のタイトルとなっている「反哲学」の哲学とは、いわゆる思想一般をさしているわけではなく、プラトンデカルトヘーゲルまでの超自然的思考方式をさしているのです。なので「反哲学」とはニーチェから始まる自然的思考のことを指しており、元より自然と一体化した文化と素養を持っていた日本人に馴染み深い思想だそうです。

P47 ではいったい哲学とはなんなのか。哲学の根本問題は「存在とは何か」を問うことだ、つまり「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういうあり方をしているのか」を問うことだ

ここでいう「哲学」はプラトンヘーゲルニーチェハイデガーも含めた全ての哲学(木田先生風にいうと哲学と反哲学)を指しております。哲学も反哲学も実は起点となっている問題は同じ。「存在とは何か」という問いなのです。

「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」ウィトゲンシュタイン
「哲学するとは<なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか>を問うことである」ハイデガー

この世界が存在することそのものへの問いが彼らを思考へ駆り立てる。ただし、哲学と反哲学では、考え方が根本的に異なります。反哲学が浸透する以前、プラトン以降の超自然的哲学者達(哲学者達)は、この摩訶不思議な存在そのものに先立つ「超存在」を規定することで、この存在を理解しようとしました。それがイデアプラトン)、純粋形相(アリストテレス)、神(キリスト教神学)、理性(デカルト)、精神(ヘーゲル)と呼ばれるものです。では、彼らはどういった理路をもって、この存在を認識したのでしょうか。デカルトの例をあげます

P159 〜というのも、自己の存在の確実性を確信した人間理性が「明晰判明な観念」をもつことのできるものーつまり人間理性が明確に認識できるものーだけが「真に存在する」と認められるわけで、結局は人間理性が自然のうちに何が存在することができ、何が存在することができないかを決める決定権を持つことになるからです。当然、そうした決定権を持つ人間理性はほかのものと一緒に自然のうちに存在しているようなものではあり得ず、一種超自然的原理でなければなりません。言い換えれば、人間の理性が「それがなんであるか」を明確に認識することのできるものだけが、自然のうちに「現実に存在すること」を保証されるわけで、当時の知識の混乱の中で実に様々な意味に使われていた「存在する」という言葉に「理性の明確な認識の対象であること」という一義的な意味が与えられたのです。

誰もが知っている哲学のこのフレーズ。近代哲学の基礎を築いたとされるこのフレーズから考えてみます。
「我思うゆえに我あり」
この言葉は、一切の学問的認識の基礎となり得る真理を発見するために考え出された方法的懐疑という手法から生まれました。何でもかんでも根拠なく信じていては、正しい世界認識はできない。まずは全てを疑ってみて、それでも疑い得ない残った事実だけが全ての認識の基礎足り得る、というのがデカルトの炯眼でした。

天体がある周期で回っている?本当に回っているのか?天体なんて本当はそこにあるのか?見えていると思っているだけじゃないのか?待てよ、そこにあると思っている「私」は本当に存在するのか?

そうやって、どんな世界認識でも根本から全て疑ってみると、そこには「疑っているわたしが存在する」という疑い得ない事実だけが残ります。そこを起点としてデカルトは世界認識の理路を構築していきました。「明晰判明な観念」とはわたしが存在するという確信のことです。あらゆる物質、感覚的諸性質を排した世界観の中でも厳然として存在し続ける「わたし」こそが、この世界の「存在」を認識出来、「存在しないこと」を決められる超自然的な存在足り得るのです。こうして自然から超越した「わたし」が自然と対峙するという世界認識の構図が西洋近代哲学の基礎として成立しました。

死とは何かを考えることは、存在とはなにか、存在しないとは何かを考えることです。どんどん核心に迫ってきました。一旦、ここで中断、続きます。