「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

あの根源的問題について⑤ 仝/佐々木中

 

仝: selected lectures 2009-2014 (河出文庫)
 

 

佐々木中のスゴイ本です。「ドウ」と読みます。2009〜2014までの講演を編集文庫化したものです。『切り取れあの祈る手を』も口語体で読みやすかったですが、本書も同じように「あなたに伝えたい」という強烈な熱意が伝わってきて、非常に読みやすい。扱っているテーマは簡単なモノではないですが、「ここは理解しなくてはならない」という熱い要請に応えたくなってくる本です。

講演した時期が2009〜2014ということは当然3.11以前と以後で話すテーマも緊急性も切迫性も変わってきます。直近になればなるほど佐々木中の講演は熱を帯び、怒りを増し、過激になってきます。

最近、死についてよく考えていたので、ちょうどそこに通じるテーマが採録されており、これはと思ったところを抜き出します。

まずはニーチェニヒリズムについて。ニーチェはブッダの徹底的ニヒリズムを賞賛します。

P25 諸行無常というのは、そういう「無常観」「無常感」ではない。もっと過酷な、乾いた事実です。ずっとあるものはない。固定したものはない。固定した自我もない。いつか死ぬ、いつか壊れる、いつかなくなる、という端的な事実です。詠嘆なんて入り込む余地はないわけです。詠嘆する時に、詠嘆する自我だけは無常から逃れてしまっているわけですからね。中略、しかも、そのなかで、最後に無慈悲にブッダはこう言うんです。おまえは死ぬ。だがそれだけではない。おまえは救えない。君の愛する老いた親も、子も、妻も、友人も、誰一人この死から救うことはできない、と。誰も救えず、誰にも救われず、お前は死んでいくんだ、と。そして、サラっとこんなことを言う。「あれをしたらこれをしよう、これをしたら次は、などと齷齪している人々を、老いと死が粉砕する」。こういう身も蓋もないことを言うんです。生は有限で、いつか死ぬのだからそれまでせめて齷齪がんばろう、ではないのです。がんばったって死ぬ、死が粉砕する、そしてその粉砕から、おまえは誰も助けることもできない、と言うんです。ブッダってそういう人です。諸行無常一切皆苦って、そういうことです。

では生は苦しみで、死が救いか、どうせ死ぬなら何をしても良いのか、というとそんな簡単な話ではありません。ここでブッダは輪廻転生という概念を持ち込み、死を相対化させます。輪廻天性は死んでも死んでも死に切れない、生から逃れられない苦行なのです。

P32 死の恐怖を死ねないことの苦しみに変えること。個々の死を苦しみの生の連鎖に転化すること。個々の死を絶対的に相対化すること。そしてブッダはこういう個々の死を超えた「絶対的な死」を置く。「真の死」を置くのです。この「個々の死そのものである苦しみの生の連鎖」から完全に脱出し、そこから離脱することが真の死である。するとそれはもう、恐怖でも苦しみでもないわけですね。「二度と生まれない」ということが真の喜びなのです。これを解脱とか涅槃、ニルヴァーナというわけです。

ブッダは我々に迫り来る死の恐怖を「輪廻転生による苦しみ」で相対化し、真の死と対置することで解消させました。でも現代を生きる我々は輪廻転生を信じることもできない、死は厳然として目の前に迫ってくる、恐怖はなくならない。ここで引用すべきがモーリス・ブランショです。ブランショは「すべての人は死ぬ。必ず死ぬ。絶対死ぬ。」という命題をひっくり返します。

P59 私のは私にしか死ねない?違いますよね。死に行く時に、自分は、誰でもない何かとなって死んでいくのです。無限に灰色の中に溶けて行くのです。永遠に。死の過程に終わりはありません。ああ、私はついに「死に終えた」ということができるひとはだれもいません。だから、私は死ねません。私は、私の死を死ねません。

P63 だからこういうことになります。死に向こう側はない。そしてまた、死にこちら側はありません。死には、彼岸も此岸もないのです。われわれは死に行くんです、死にに行くのではなく。われわれは「死に行き」そのものです。われわれは無限の、果てのない死に行きそのものなのです。「どうせ」死ぬとか、どうせ死ぬの「だから」とか、余計です。どうせ?だから?そんな言葉は不要です。われわれは死に行く。われわれは無限に死に行く。無限に死に行くということは、死がない如くに死に往き続けることです。

死が訪れた瞬間、私は私でなくなるのだから、私は死ねない。私という存在は死の向こう側にはいけない。私は「死に行き」そのものである、ということです。アキレスと亀みたいな、なんだか実感が湧かない話ですが、この本を読んで時間が経った今、案外そういうもののような気がしてきています。これが現代哲学の死の到達点です。

P94 根拠律自体には根拠がないとすれば、根拠律自体は論理的に論証することはできないわけです。とすれば、根拠律が示されるには、それは非論理的に、藝術として、美的に上演され、反復されるしかないということになる。

P95 プリモレーヴィがあまりにも喉が乾いてどうしようもなくなって、窓辺にある氷柱を折ってそれを食べようとした。するとすぐに強制収容所の係員がやってきてそれを奪い取って彼を突き飛ばすわけです。「なぜだ」というと、こう返事が返ってくる。「ここに何故はない」と。中略、つまり根拠も理由も理性もない時空というのは、こういうことです。

P176 それ自体が無根拠な根拠、それ自体が非道徳的な道徳を脱却して彼方へ行けということ、そしてやはりそれもまた無根拠であり非道徳的なものなのかもしれないが、それでも新しい根拠、新しい大地を創り出せ、ということを意味する。中略、逃げ場はない、脱出はない、出口はないし、離脱はない。どこにも逃げられない、ではどうするのか。今ここで砕かれてしまった大地=根拠を新しく作ることではないのか。いかにそれが汚されてしまったとしても。生きうる根拠を新しく見い出すために、この大地に一つの場拠を。

ニーチェは神だけを殺したのではなく、根拠律を、因果律を、道徳を殺しました。それはつまり、アンチ根拠、アンチ道徳の意味さえも無効化したことになります。だって元々意味のないものを否定しても意味ないんだから、それがわかっていてもわれわれは無根拠、無道徳の世界では生きていけません。だから佐々木中は言う。それでもなんども創り直さねばならない。われわれの手で。われわれの藝術で美的活動で。

P103 最終的に人間が無目的だということを見て取る時に自分の働きが浪費という性格を帯びて見えてくる、と。ひとつひとつの花々が自然に浪費されているように、われわれひとりひとりも浪費されている。この浪費されているという感情はあらゆる感情を超えた感情なのだ、ってね。そして、この感情を感じる能力があるのは、確かに詩人だけだ。そして詩人というものはいつも自己を慰めるすべを心得ていると。中略、でもこれがこれこそが自由ってことなんです。目的がないということは目的に従わなくてもいい、目的の奴隷ではなくてもいいということなんだから。救済など必要無い。われわれはいうなれば絶対的な非救済という形ですでに救われている。つねにすでにもう自由なんだってことなんです、これは。

目的もなく、根拠もなく、道徳もないこの世界で、死が迫り来るこの生を、私はどう生きれば良いのでしょう。そんな問いかけに対して、一編の詩が答えてくれました。

慈善病院の白い病室で私が
朝ちかく目を覚まし、ツグミのなくのを
聞いてまえよりもよくそれがわかった
すでに久しく私に死の恐怖はなかった
私自身がいなくなったとしたところで私には
なにものもなくなりはしないだろうから
今、私には出来た
私のいないあとのツグミの歌をも
ことごとくよろこぶことが

死を考えるシリーズ、次で終了です。