「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

最近のこと 2017年7月29日

最近、全然ブログを更新できなかったのは、ようやく自分が言い出した新規事業が開始したためです。2015年12月末にアイデアを閃いてから1年半で実際にプロダクトを世に出せたというのは、そんなに悪くないスピード感のような気もします。

2016年2月にパートナー候補と話が盛り上がって
2016年5月に会社が乗り気になって
2016年9月からシステムの開始を初めて
2017年2月ようやくβ版を世に出せると思ったらパートナー候補ともめて
2017年4月に和解して
2017年5月連日深夜まで働いてシステムを完成させて
2017年6月に限られた人だけに公開して
2017年7月に世に出しました。


本格的にローンチして1ヶ月です。まだまだ全然成功の兆しも見えません。1日100弱音くらい吐きます。


失敗したら全部自分のせい。
いろんな人を巻き込んでしまった。
これが出来なかったら自分って本当に無能な人間だよな。
みんなから「やっぱりダメだったな」と笑われるな。
会社にいられないかもしれないな。
そもそもアイデアとしてダメなのかもしれない。
俺じゃない人がリーダーだったら成功するのかもしれない。


なんてことが頭の中をグルグル回ります。その都度、別の自分はこう励まします。

ダメでもともと。
本当はゼロだった。イチになれば大成功。失敗が当たり前。
無能だって良い。自分のせいだって良い。やりたかったんだから。
笑われたから何なのだ。
会社に居座れ。
いや別の会社でまた楽しいことをやれ。
いやいやアイデアも能力もある、全力でやろう。
どうやったら成功するかを考えること、そのものが「楽しい」のだ。
というか、「やらずにはいられない」のだ。



****************


明日31歳になります。

30歳の1年間は本当にいろいろなことがありました。
プライベートでは、私が別の女性と食事にいったことが妻にばれて離婚ギリギリまで話がいきました。本当に食事に行っただけなんですよ。本当に。他にもお義姉さんの息子を婿養子にするべきかという話になったり、バレンタインデーのチョコを「薄いね」と言ったら離婚ギリギリになったり、職場の先輩とご飯に言ったことを秘密にしていたら離婚ギリギリになったり、嫁姑問題で両親と絶縁状態になったり、もう無茶苦茶でしたね。たぶんこの問題は31歳になっても何も解決せず、どんどん問題は泥沼化していくでしょう。


仕事は新規事業立ち上げでテンションMAXになったり、不安MAXになったり、怒りMAXになったり、毎日無我夢中です。



プライベートも仕事も波乱万丈です。たぶんこんな暮らしをしていたらストレス過多で40代後半で死ぬ。でも「死の恐怖」、「存在論的不安」を克服するためには、毎日無我夢中で「苦闘」すること以外にないと思うのです。30年生きてわかったのは、自分はただ何となくぼーっと生きていくことが出来ない、ということです。何かせずにいられない。大変なこと、苦労の多そうなこと、刺激的な場所、意味不明な人と接触、しないではいられない。自分の意思で今の妻と結婚し、自分の意思で今の仕事を始めている。選択的に頭を悩ますようなことをしている、それが自分なのだと思います。


31歳はどんな一年になるだろう。

こじれにこじれた嫁姑問題

もともとうちの妻と母は毎日電話しあうほど、仲が良かったのです。なんでこんなことになってしまったのか。


先月までこちらは横浜、向こうは京都に住んでいました。


父親の仕事の都合で今は京都に住んでいるが、いずれは息子たちのいる横浜に引っ越してくる、という話を以前から聞いていました。
次男の私は横浜の海の方、長男は横浜の山の方に住んでいるので、どちらにしろ横浜に住もう、海と山の間でも良いな、という風に。


長男の嫁は、うちの妻と正反対で、あまり社交的ではないけど安定しているタイプです。
両親にプレゼント渡したり、こちらから電話したり、ということはないけど、距離感は一定。


私の妻は、急に両親にべったりでプレゼントあげたり、毎日2時間電話してたりするけど
一つ嫌なことがあると全く音信不通になるタイプ。距離の幅が凄い。



妻の機嫌が良い時、母と妻は電話で日夜今後のことを話していた。
「横浜行ったら、海の方に住んでー、うちが車を持つから自由に使って良いし。犬の散歩も手伝うよ。兄嫁は挨拶も電話もないからとっつきにくくてー、そっちに行くわ―」と母。


うちの妻も自分には両親がおらず、子育てする時に私の両親が近くにいてくれると助かる、ということで近所に住んでくれることを楽しみにしていたようだった。マンションは少し不便なところにあるので、買い物はどうしたら良いか、とか2世帯で使う車ならどんなのが良いかとか、たまに夫婦で話したりしていた。



一方で、私は「今は妻の機嫌が良いから良いものの、絶対、もう無理顔も合わせたくない、と言い出す日がくる」と確信していたし、地銀勤めの兄と違って、私には全国転勤、もとい全世界転勤の可能性があった。こちらから両親に近くに住んで欲しいと言いながら、我々の方から横浜を去る可能性がある。それは申し訳ない。だから「好きなところに住みなよ、我々もいつまで横浜にいるか分からないし」と伝えていた。そこで兄嫁の妊娠が発覚した。


3ヵ月後、両親は兄の住む家のすぐ近所に引っ越した。妻は私からそれを聞き、顔面蒼白になった。


先週の日曜日、引っ越し祝い+出産祝いで妻と一緒に横浜の兄宅へ遊びに行った。
兄宅に着くと、兄嫁が赤ちゃんをあやしていた。兄と母が車で買い物から帰ってきた。もちろん両親の車だ。
父は犬の散歩から帰り勝手にドライヤーを借りて髪を乾かしていた。母も自分の家のように振る舞っていた。


まさに母がうちの妻に言っていた生活そのものがここにあった。
妻の心は壊れた。


妻には両親がいない。
兄嫁には自分の両親もいる。

兄嫁は出産のときは実家に帰れた。
妻はどこにも帰れない。


うちの母は「私がお母さんだと思っていいのよ」と言った。
でも実際は兄嫁のお母さんとしての暮らしがここにあった。


自由に車を使っていいなら何の車にしようかと夢想していた時があった。
いま、兄が両親のBMWを自由に乗り回している。


うちの超大型犬の散歩は身体がもたないと言って拒否し
兄のプードルの散歩は毎日父が行っているらしい。


「兄嫁は何考えているか分からない」と毎日電話で言っていたのに
自分とはじまるはずだった理想の暮らしが目の前で展開され、妻の目の前は真っ暗になった。


妻はひとことも喋らなかった。
母は「何かあったの?」と妻に何度も電話をかける。

妻は「もう家族でも何でもない、二度と会いたくない」と私に泣きながら訴える。
書きながら気づいたけど、この問題の根本は私が妻を信頼しきれないところにあるんだと思う。

妻に言われると辛い言葉で打線組んだ

 

1番 は?

(妻にとっての相槌)

 

2番 結婚しなきゃ良かった。。

(意見が通らない時の常套句)

 

3番 使えねぇな。

(私が開けっ放しにしてた引き出しにアタマをぶつけた時に放った一言)

 

4番 きも

(身体を見られると反射的に出てしまうセリフ)

 

5番 なんで結婚したの?

(私が土日に友達との予定を入れたいと言うと帰ってくる文句)

 

6番 私だけ愛してくれる人と結婚したかった。

(他の女性の話をすると死んだ目をしながら。たとえ職場の同僚の話でも)

 

7番 なんで東京連れて来たの?

(勝手について来たんだろ)

 

8番 普通の男の人はそんなことしない。

(接待で夜の店に行ったことが匂いでばれたとき)

 

9番 (亡くなった自分の)お母さんに会いたいです

(離婚の話になると持ち出す必殺技)

 

控え

殺すぞ、最低だな、あなたの家族みんな嫌い、

なんで私が我慢するの?

 

 

ふぅ。

今日は久々に一人の休日で、嬉しい!

 

 

 

何度でも読み返したい漫画 マンガで分かる心療内科 アランの幸福論編

このシリーズ大好きです。今回も目から鱗の連続でした。

マンガで分かる心療内科 アランの幸福論編 (ヤングキングコミックス)

マンガで分かる心療内科 アランの幸福論編 (ヤングキングコミックス)

人間が人間に与えられる最大の贈り物は上機嫌



成功するから幸せになるのではなく、人生がうまくいくから優しくなれるのでもなく、幸せになるから成功でき、人に優しくするから人生がうまくいく



「幸せになるぞ」と口に出して言っている時、その時の感覚がすでに幸福である



楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい



運命の女神は偉大な人物に成長させるためにわざと敵をつくる



もっとも恐ろしいのは想像力



心配事の4/5は実際に起こらない、実際に起こる心配も4/5は準備しておけば問題ない



自由に働くのはもっともいいもの、奴隷のように働くのはもっとも悪いこと



仕事は報酬よりもどれだけ楽しめるか



幸福とは行動である



大切なのはまずやること。まずは出発し、どこへ行くかはそれから考えればいい



幸福は過程の中にこそ存在する



つまり幸福とはつらい道のりを歩いているうちに楽しさを感じること

仕事でお客さんから否定されることもあり、
会社からの評価がめちゃくちゃ低かったこともあり、
かなり落ち込んでいましたが。

今やっている仕事が楽しい。
好きな人と喋っている時間が楽しい。
仕事にやり甲斐を、人生に生きがいを感じている今の幸せに気づくことができました。


何度でも読み返したい漫画です。

匂いを表す語彙が無さ過ぎる問題

私は匂いフェチなのです。


でも何の匂いが好きかを人に伝えるのに大変苦労します。



大学時代に好きだった女の子が付けていた香水。あの匂いを電車で嗅ぐと懐かしくて切ない気持ちになります。あの香水はどこのブランドのなんという商品なのか調べようにも、「匂い」を表現する言葉がないのです。


味は辛いとか酸っぱいとか甘いとか、味覚に関する語彙が存在します。
触覚はざらざらするとかぬるぬるするとかすべすべとか。
視覚、聴覚に関する語彙なんてそれこそ無限にありますね。

でも匂いに関する言葉ってないですよね。
「柑橘系の匂い」とか「タバコの匂い」とかモノそのものを指して表現する言葉はあっても、匂いそのものを表す言葉が存在しないことに驚きました。

だから、あの独特の匂い、を相手に伝えることができなくてもどかしい。

勉強し過ぎてキモがられてる人のための勇気の書『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 千葉雅也

読みやすくタメになる本です、

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

P20 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。

ここが本書のポイントです。勉強とは必ずしもいい事だらけな訳ではなく、勉強することによって失うこともある。知らなきゃよかった、知らないまま死んだ方が幸せなことがあるものです。幸福とは閉鎖のことです。勉強とは自らを解放することです。


卑近な例で行くと、一番最初に大麻覚せい剤を服用した人は「とても幸せ」だったことでしょう。こんなに気分が良くなって、幸せな気持ちになれるのか、と。四六時中でもラリッているのが幸せだった。でも、それらが人体に与える影響を勉強した途端、そんなことが出来なくなります。「待てよ、このままラリってたら、やばい終末が待っているな」と気づいてしまう。それが勉強の「ノリの悪さ」です。周りは「こんなに楽しいものを何で受け入れないんだ」とノリの悪い人を排除しようとするでしょう。でも勉強してしまったら、元のノリには戻れない。


公害も同じかもしれません。有毒ガスを垂れ流しながら莫大な利益を出している会社に勤めているとして、「こんなに儲かるんだから、どんどんやろう、商売ってなんて楽しいんだ」と周りは浮かれている。でも有毒ガスが近隣住民や環境に与える影響を勉強した途端、「こんなことしてたらダメだ」と周りを止める「浮いた存在」になってしまう。


同様のことが会社行って家に帰る生活の中でも起こりうる。上司の悪口ばかり言っている同僚に対して「逆の立場に立ったらその言い分がはおかしいよね」と言ってしまったり、カラオケでオールしようと言う流れの中で「徹夜が労働生産性にどれだけ悪影響化分かってる?」と諭したりする。クリスマスを素直に祝えなくなったり、バレンタインデーを百貨店のマーケティング戦略に踊らされているだけと批判したりする。いわゆる、そういう「つまらない奴」になるのが勉強です。

P35 たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴは箱のなかになる」と、非現実的なことを言うことも出来る。「ここにはクジラがいる」ということさえ出来る。何でも「言えるには言える」わけです。中略、こうした言語の自由さにあらためて驚いてほしいのです。

これはウィトゲンシュタインの論理空間に対応する説明です。「私は深田恭子と付き合っている」と言えることの凄さ!現実に付き合うにはめちゃくちゃ大変です。出逢って、興味を持ってもらって、愛の告白をして、承諾を得なくてはならない。とても無理だ。現実にはありえない。現実にあり得ないことでも、言うことはさらっと出来る。論理空間としては「私は深田恭子と付き合える」のです。

P51 勉強をするさなかでは、言葉への違和感が、可能性の空間としての言語のヴァーチャル・リアリティを開くのです。

さきほど「論理空間」という言葉を使いました。使い慣れている人にとってはどうってことない言葉ですが、初めて聞いた人には違和感があることでしょう。論理と空間?どゆこと?例を聞いていくと「なるほど、言葉で表現できる、可能性の世界のことね」と理解に至る。その言葉が身体に馴染んできて、ようやく論理空間と現実という対比構造が浮き彫りになります。そこからさらに、論理空間の無限の可能性に驚き、現実が一つの選択肢として目の前に存在することに驚愕する。その体験が勉強なのです。

P53 一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、特定の環境のノリと癒着していない別の可能性を考えられるようになることである。

P57 深く勉強するとは言語偏重の人になることである。

まずは言語があり、そこから初めて現実以外の可能性に対して考えが広がる、という意味で、勉強とは言語偏重である、と言えるわけです。では、現実の可能性を広げるための言語とはどうやって生み出されるのかというのが、本書の肝となる議論です。千葉雅也はこう言います。


P64 ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。

アイロニーとは共通のノリを破壊する思考パターンです。例を言うと1年ほど前に話題になった壇密と久米博のやり取りが適格かもしれません。最近の若者の恋愛は食事に行っても、ラブホに行っても何でもかんでも男女で割り勘をするのが当たり前という話題の中で久米博が壇密に「僕と君がラブホに行ったらどっちが払う?」といやらしい顔して聞くわけです。ここでは男と女がホテル代をどっちが払うのか世代によって変わるのかな、それを確かめようか、という共通のノリがあるわけです。実際には久米博がそういうノリだった訳です。恋愛心理テクで言うとこういう質問をすると「そもそも一緒にラブホに行くか」という選択肢がすっ飛ばされて、「ラブホに行った後、どちらが支払いをするか」という興味に意向するので、ラブホに誘いやすくなる、みたいな効果があるらしいです。「朝一緒に起きたら、朝ごはんはパンかご飯どっち食べたい?」という質問も有効です。話がそれましたが、壇密はそんな久米博の邪な意図満載の質問に対して「文春が払うと思います」と応えた訳です。これがアイロニーです。「どっちが支払うのかな?」というノリに対して、「そもそもお前とラブホに行くということは誰かの差し金でしかありえず、その結果、お前は破滅するんだよ」と応えている訳です。こうなったら久米博のいやらしい意図も粉砕され、壇密と美味しい思いができるかもという想像も霧散し、世代間のホテル代の負担の傾向の話題も全て吹っ飛んでしまう。これがノリの悪さであり、勉強の効果なのです。ノリ的には「んも~、久米さんのエッチ!」や「久米さんが払ってくださいよー」で良かったわけです。でもノリをぶっ壊すアイロニーの方がこの場合は爽快でしたね。ある意味、勉強と言うのは現在の嫌な状況をぶっ壊す効果があると言えるのかも知れません。


つづいてはボケ=ユーモアです。これはノリを破壊するのではなく、ノリを足していく思考パターンと言えるかもしれません。ワイドナショーの松本の発言はいつもユーモアに満ちています。松本という人は常に違う見方を提供できる人だから面白いのですね。最近では、アキラ100%BPOから批判を受けているというニュース。他のコメンテーターは「出ちゃったら批判するべき」とか「そもそも面白くない」とか当たり前のことを言う訳です。そこで最後に松本が「絶対に出さないと言う芸なんだから、むしろ一番倫理観がある」と言ってのけました。これこそ発想の転換ですね。

私が一番笑ったのは自転車のサドルが昔は良く盗まれた、という話題の中で、「なんで盗むのかね」とか「別にお金にならないでしょ」とか発言が飛び交う中で、松本が放った一言。「そもそも世界にサドルが一個足りないんじゃないか」

これはサドルがないと困るという共通のノリは壊さずに「元々サドルが一個足りない世界で起こる現象」を想起させました。天才のそれですね。


では天才に近づくために、どうやって勉強すれば良いのかと言うと。

P185 勉強の足場とすべきは「専門書」です。

とあります。
専門書と言うのは数々の批判に耐え、長年読み継がれてきた文献を参照に厳密に書かれたものなので、足場としやすいのです。稲盛和夫が「努力が報われるのが宇宙の法則である」と言っている本は専門書ではありません。一般書と言います。このような本からは勇気をもらうことはありますが、正しさは稲盛和夫1人の経験からしか担保されていません。やはり専門書を読みなおそう、と私も決意しました。


勉強の効用を分かりやすく構造化してくれる良書です。この本は準専門書と一般書の間の様な位置付けなので、勉強の開始にはぴったりです。

次はウィトゲンシュタインを読む!!

意図がズレてる 経産省の次官・若手プロジェクトの報告書を読んで

経産省のこの報告書が話題になっているそうです。

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf


カチカチの経産省から「若手」が、しかも「抜本的な改革を」という文言が前面に出た資料が公になることがあるんですね。

国内外の社会構造の変化を把握するとともに、中長期的な政策の軸となる考え方を検討し、
世の中に広く問いかけることを目指すプロジェクト。


具体論がないとか、So what?とかいろいろな批判があるようですが、そもそもプロジェクトのコンセプトとして「広く問いかけること」自体を目的としているので、はてぶが2000以上ついた時点でこのプロジェクトは成功と言えます。


高齢者優遇の硬直化した制度を撤廃して、もっと個人が好きなことをやれるような制度に刷新しよう。そうすれば組織を全体が活性化するはず」というストーリーって経産省だけでなく、きっとあらゆる企業の若手の中で数年に一度は盛り上がる議題なんじゃないでしょうか。私のいる商社業界でもそうです。前いた重厚長大メーカーでもそうでした。「若手を集めて何かしよう」と若手の誰かが言うか、若手と話したがるおっさんが言い出す。私も過去2回そんな議論に参加した記憶があります。若手が議論して、実行するためにエスタブリッシュメントたちに上程する中で、反対意見に疲れ果て「もうどうでも良いか」となってくる。そこでおっさん達が「お前らも結婚して子供を産んで、生活していく中で、世の中変えようなんて思わなくなるよ」なんて諭されたりする。そういうもんです。プロジェクトなんて。


こういった議論は「ここが問題だ」、「ここをこうしたらもっと良くなるんじゃないか」と観念的なことを話しているうちは楽しいのです。だって観念的なことに反対意見なんて存在しないから。今回の経産省次官・若手プロジェクトで言うと「働ける高齢者は弱者と規定しないで働ける場を提供しよう。公でカバーできないところは民間の力を借りよう」と提言している点。これだけでは「うん、そうだね」としか言いようがありません。だって誰もが共感できる理想を語っているだけですもん。「みんなが幸せになろう」と言っているのに等しい。本当にやっかいなのは具体論に噛み砕いてからなのだ。


「弱者ではない高齢者をどう線引きするのか」とか「民間の財源をどうするんだ」とか「公に見捨てられた個人はどう生きれば良いのか」という問題は個別具体論であって、観念的な議論の場では表面化しません。でも、実際に行動に移す時はこの個別具体論が全てなのです。


「弱者ではない高齢者をこう規定します」と具体論を提示した途端、反対意見が100億個出てきます。例えば「65歳以上の全員に健康診断をして、線引きします」と言った日には「もともと高血圧体質で健康な人はどうするんだ」「メタボは弱者なのか」「病院までいけない人は自動的に弱者になるのか」「だったら誰も病院に行かないんじゃないのか」「健康診断の費用は結局若者が働いた税金から出すのか」「本人は健康で働きたいと言っているだけで、能力ないし体力ないから周りは迷惑だ、それでも雇わないといけないのか」「急に病気になったらどうやって弱者になるのか」「病気が治ったら弱者じゃなくなるのか」「毎年検査するのか」「健康で気力があるうちに一日中テレビをみたいんだ、放っておいてくれ」・・・・という風に。


個人的にはこの提言に対しては好感と怒り、二つの感情が沸きました。
好感をもったのは、資料が綺麗で色合いのセンスが良いところ。


でもやっぱり怒りが湧いてきました。提言するだけなら、どの企業の若手もやっています。何度も言うけど、問題はそこからです。実際にどう行動に移すかです。

みんなに共感してもらえる「共通の目標」を
政府が示すことは難しくなっている。

蛇口をひねれば水が出て、ボタンを押せば明かりが灯り、綺麗な靴で道を歩ける、だけで政府がやれる「共通の目標設定」なんて終わっているのです。それ以上の幸せは個人の問題に移行したんだよ。今さら何を言ってるんだ、経産省の若手達。


本当に何か変えたいなら、外に出て今ここであなたが行動に移すしかないよ。世の中を抜本的に変えるのはさすがに無理だけど。20代、30代のうちから何か一つに本気で取り組めば、一つくらい実現できるかもしれない。


経産省の若手諸君。「世の中に広く問いかけることを目指す」とかクソしょうもない目標を掲げてないで、本気で世の中を変えるために動こうよ。


俺も頑張るから。