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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

小倉優子が幸せになれなかった理由

新番組『良かれと思って』のゲストとし小倉優子が出演していました。

 

私のようなアラサー世代にとって、ゆうこりんというのは唯一無二の圧倒的アイドルとして強烈に記憶に残っています。

 

 

当時の小倉優子は本当にすごかった。顔はめちゃくちゃ可愛い。胸は大きくないけど手足は長くて、結構せめるグラビア水着もやってた。こりん星とかめちゃくちゃな設定でも許されるくらい圧倒的に可愛いかった。

 

 

グラビアをやらなくなってからあまりマジマジと小倉優子をみたことがなかったのですが、今回久しぶりにじっくり小倉優子を観察して思うことがありました。

 

 

たしかに顔は可愛い。昔の写真と比べると目が二倍くらい大きくなってるけど、やはりすごく魅力的な容姿だなと思う。誰がどう観ても芸能人!という感じ。こんな一般人いないもんね。

 

 

でも、やはり33歳、二人の子供を持つ母親です。さすがに目尻のシワも肌の劣化も隠せる限度があります。これからも容姿の魅力は減退していくのでしょう。

 

 

そしてキャラクター。これが問題。話が一ミリも面白くない。意外性もないし、論理性もないし、空気を読んでる感じもしない。若くて可愛いということだけでチヤホヤされていた時のゆうこりんそのままでした。チヤホヤされていた女の人が歳を取るというのは、こういうことかと思いました。

 

 

 

身体的には確実に33歳になっているけれども、中身は若くて可愛いお嬢様のままなのです。誰かが自分を受け止めてくれる、話を広げてくれる、気を使ってくれるという前提の世界観で生きているのです。

 

 

 

若くて可愛い時はそれでいいのです。ただいるだけでみんなの心のオアシスとなれる存在だったから。現にゆうこりんがいるだけで絵として成立していた時代があった。

 

 

 

でも、もうダメだ。世界は変わっていないが、自分は歳を取ったのだ。若くて可愛いからみんながお膳立てしてくれるという超絶ボーナスステージは終わってしまったのだ。これからは自分で話題を作って、周りを巻き込んで行かないと生きる道はない。

 

 

いや、ゆうこりんに限らず、全員そうなんだ。若いから許されてる特権期間というのがたしかにある。でも、それを過ぎた後、若者と同じように振舞っていたら、誰にも相手にされなくなる。だから、技術なり資格なり人脈なりをそれまでに身につけておかねばならない。

 

 

これは人生におけるオランダ病と言えるかもしれない。

 

 

若さと可愛さという天然資源が豊富にあり過ぎた故、勤勉、努力、気遣いを養う必要がなかった。しかるに若さと可愛さは必ず失われる。その時には何もない大人が出来上がる。

 

若くて可愛過ぎた故につまらない大人になり、結果、恋人や配偶者の愛情を受けられなくなって破局、というケースって、この世の中にかなりザラにあるんだと思う。

 

 

小倉優子は可愛過ぎた。なんの努力も必要ないほど可愛過ぎた。周りもそれを認めていた。それが彼女の不幸だった。彼女を不幸にした一因は小倉優子をありのままで崇拝していた私のようなファンである。

 

 

美人が幸せになるのは、本当は1番大変なのかも知れません。だから、佐々木希も数年後は、、、

 

 

 

 

待機児童問題は問題ですらない

待機児童問題って、つまるところ、安くて安心な認可保育園に入りたいけど入れない人がいる、という問題なんですよね。でもこれってそもそも問題なの?ただのワガママじゃない?

 

 

安くて安心な牛肉を毎日みんながお腹いっぱい食べられる世の中でないことを牛肉不足問題とは言わない。

 

日本でガソリンをタダでいれられないことをガソリン問題とは言わない。

 

 

なぜなら、それは無理だから。

 

市場原理的にも、国のリソース的にも。

 

 

なのに、なぜ待機児童に関しては問題と認識されているのだろうか。

 

 

そもそも、価格と安心はトレードオフである。どんな業界でもそう。家だってセキュリティオートロックのお家の方がドラクエの鍵みたいなのしかついていない家より高い。食べ物だって育てた人の顔がわかる野菜の方がどこの国から来たのかよくわからない極彩色の野菜より高い。医療だって、病院で診てもらう方が市販の薬を飲むよりも高い。当たり前の話である。子供の保育だって同じ話だ。

 

きちんと教育を受けた保育士さんに一人当たり5人まで担当させ、一人当たりの面積も十分に与えたい、のであればかかるコストは当然大きくなる。

 

逆に外国人が一人で30人面倒見るのであれば、コストは極力抑えられるだろう。

 

労働生産人口が減っているんだから質の良い保育士を一定数以上保ち続けるのも大変。税収が減り続けているんだから、補助金にも限度がある。

 

でも、国による補助金がなければ、安い価格で保育園を運営出来るわけがない、と言う。そりゃそうだ。元々無理な目標設定なのだ。

 

安い価格を維持するためには、保育士一人当たりの児童の数を増やすしかない。つまり安心を手放すしかない。

 

安心は絶対条件です。でもお金は払えません。けど働きたいです。という要求がそもそも無茶なのである。

 

安心が欲しいのならお金を払えば良い。プロのベビーシッターを雇うが良い。誰も止めはしない。

 

お金がないなら稼ぐしかない。働いているんでしょ?労働生産性を上げて稼ぎを増やすしかない。

 

働きます。でも労働生産性は上げません。だから給料安いです。でも子供は欲しいです。安心で安い保育園を作ってください。

 

って、言ってることめちゃくちゃだ。

 

子供を安心して預けたいなら、それ相応の稼ぎを得るしかない。お金がないなら、自分で子供の面倒をみるか、安心を手放して安いところに預けるしかない。

 

保育園は義務教育の場じゃないんだから。行かせたいのは完全に個人の都合なんだから。甘えないで自分でなんとかしろ。

 

 

さびしいのは誰か

最近、毎日深夜まで残業していて、気づいたことがあります。



私の周りに限った話かもしれませんが、変える時間が遅い人は大体決まっている。遅い人は常に遅い。

いつも早く帰る人といつも遅く帰る人の属性を観察していてふと思いました。実は外(会社でない世界)に帰っていく順番ってさびしくない順、世の中に一緒にいてくれる人が多い順なんじゃないかと。


まず最初に帰るのは若い女性です。既婚者でも未婚者でも夫、恋人、友人達との予定がびっちりで一秒でも早く会社を後にしたい様子。合コンもあるだろうし、若くて可愛いという理由だけで全然別の部署の飲み会にも誘われたする。世界のどこからも求められる存在です。


次が若い男。こちらも恋人や友人たちとの予定があり、プライベートが充実している人が多い印象。合コンはあるだろうけど、さすがに別の部署から若い男というだけで呼ばれたりはしない。大学時代の友人との付き合いもまだあるし、会社の同期と飲みに行ったり、先輩に連れまわされるケースも多い。




ここまではまぁ当然の結果なんですけど、最後まで残っているワースト2が意外でした。
一番遅いのは「働き盛りのおっさん」だろうと思っていたんですが、実は「未婚のおばさま」だったりするのです。



たしかに「おっさん」は既婚だろうが未婚だろうが低需要です。家族からも嫌われ、若い連中からは疎まれ、恋人なんて出来る訳もありません。でも「おっさん」は「おっさん同士」でつるめるので、毎日安い居酒屋で群れることが出来ます。いわばそこに居場所がある訳です。



一方、「未婚のおばさま」は同年代となかなか群れられないのだろうなと想像します。だって家族から疎まれていて、早く帰ると嫌な顔されるお父さんは世の中に沢山いるけど、そんなお母さんってなかなかいないから。お母さんはいつだって家族から必要とされています。だから未婚のおばさまと同年代の友人は平日の夜、家族と過ごします。当然、「未婚のおばさま」は「おっさん」と何てつるみたくないし、若い子は恋愛に夢中で相手にしてくれません。こういう理由で一番帰る場所がない、という事態が起こっているのではないか。当然、おっさん側はいつでもウェルカムなんですけどね。



この事態を危惧して、世の中の女性は早く結婚したがるのかもしれないなぁ、としみじみ思いました。
誰も一人にはなりたくないのです。

欅坂46の衝撃

今までアイドル好きを心の底からバカにしていました。

「あっちゃんだけは他のアイドルと違う」
バカか。

「少女時代は全員の振り付けが少しづつ違う」
ほざけ。

「ベビーメタルは世界で一番売れている日本のアーティスト」
ぶっとばすぞ。


そう思っていました。
アイドルに関する言説は語れば語るほど惨めで愚かで汚く、その人の品性まで疑うべきだと。
だって、彼らはなんだかんだ上辺で繕って音楽性とか表現力とか言ってるいるけれども、その実、年端もゆかない少女たちを性的な目でみて、興奮を覚えているだけなのだ。


だがしかし、欅坂46の動画を見て一瞬で価値観が崩れ去った。


欅坂46 サイレントマジョリティ


すげぇ。



何これ。


どうなってんの?



なにこの目力?



この迫力。




すごいものを見てしまった。




会社の通勤時間。SmartNewsでSONGSに出た欅坂46が話題になっていたので、そんなに良いのかとちょっと覗いたのが間違いだった。朝っぱらから30歳のおっさんが彼女たちのパフォーマンスを観ておんおん鳴いてしまった。マジで。朝の7時。


このMVの完成度の高さよ。

まず場所。渋谷の工事現場。バックにあるのはCATの320ERR後方小旋回油圧ショベル。クレーンはちょっと分からないけど結構古いモデル。この現場に平均年齢16,7歳の少女たちがいるというシチュエーションが凄い。しかも彼女たちが歌って踊るのだからたまらない。


1番のサビ、センター平手友梨奈のモーゼと言われている場面。4分の3拍子を挟んで4分の4拍子という玄人向けのフィルイン。最後の4拍目にスネアの音と右手を振りかざすタイミングが完全にマッチし、次のサビ一拍目で左手を後ろに回す。このシーンだけで逝きそうになる。さらに顔への光の当たり方が絶妙。もう少し暗くてもダメ。明るくてもダメ。遅くても早くてもダメ。あのタイミングであのくらい顔が隠れるのがカッコイイ。ショートカットの毛先は意志を持っているかのように融通無碍に暴れわまる。そして次々に他のメンバーが前にでて一斉に踊るシーン。この振り付けがキレッキレで痺れる。”夢を追うことは時には孤独にもなるよ 新しい道を進むんだ”という歌詞が疲れたサラリーマンの心に突き刺さる。


さらに2番のサビ、モーゼほどのインパクトはないかなと思ったら大間違い。”見栄やプライドの鎖に繋がれたようなつまらない大人は置いていけ”という刺激的な歌詞とひたむきに踊りの練習を続ける少女たちの画。しかも渋谷のホームで踊っちゃう。渋谷のホームで踊ることほど「つまらない大人を置いていけ」というメッセージを直情的に訴える画は存在しないと思う。ここでも涙を抑えられない。


そして大サビから最後のサビの入り。平手の挙手のタイミング。なんなんだろう。何拍目と数えていたらこのタイミングでは手は上がらない。とっさに上がってしまったとしか説明がつかない。そして最後のキレッキレのダンスとちょっとだけ口角の上がったキメ顔。めっちゃくちゃカッコイイ。


何よりこの曲の強い意志を表しているのがコード進行。もはや、私には全く説明ができない。カポ四つでEm調としても解釈してもサビ前のF Asus4 Gsus4からのC#mというのはさっぱりわからない。Am調だとするとB♭ Dsus4 Csus4からのF#mか。うん意味がわからない。聞いたことないわ。

ドミナントからトニックであるAmに行くと見せかけてマイナーを取ったAに行くとみせかけて、そこはあえて短調のF#mということか。でもAsus4 Gsus4という展開と変速リズムでもう理論とかそういう問題ではなくなっている気がする。


もうそんな決まり切ったロジックはいらない!
私たちは私たちの感じたように表現する!
そんなつまらない解釈捨ててしまえ!
という意志が視線とメロディと振り付けとリズムとコード進行、全て現れている最高峰の表現だと思います。


てちだけは他のアイドルと次元が違う。
欅坂の踊りにはストーリーがある。
再生回数5500万回は歴史的快挙と誇って良い。


周囲にそんなことばかり言っている私はすっかりアイドルファンです。

CD買って、ファンクラブ入って、握手会行こうと思います。

筋トレライフバランス Testosterone

筋トレライフバランス マッチョ社長が教える完全無欠の時間管理術

筋トレライフバランス マッチョ社長が教える完全無欠の時間管理術

私の人生を変えたTestosterone先輩の最新作です。
筋トレの本ではなく人生を好転させるための行動や考え方を指南する本です。


筋トレに関する言説はマッチョであるというだけで説得力があります。筋トレするだけでポジティブになる、とか。ダンベルがあれば寂しくない、とか。でも話がライフにまで登ると、発信者が人生の成功者であることを知られなければ説得力を持ちません。アジアのどこかの国で社長をしているという自己紹介だけでは「この人の言うことをやってみよう」という気にはなりません。だって、小さな家族経営の会社を継いだだけかもしれないし、一人でラーメン屋台を引いているだけかもしれないんだから。

でも筋トレに関してはエキスパートなので、すごく説得力がある。
なので次回からもライフやビジネスに主眼をおいた自己啓発本を出したいなら素性を明かして、どんなビジネスでどうやって成功したかを披瀝したほうがよかろうと思います。そうすれば説得力が1000倍上がりますし、著作の幅も広がるでしょう。

それをしたくないなら、筋トレに特化した本を出した方が良いのでは。

なぜ「戦略」で差がつくのか。-戦略思考でマーケティングは強くなる-

ある事業の戦略を考えねばならず、藁にもすがる思いでこの本を手に取りました。
「戦略とは何でないか」というアプローチで戦略という曖昧な言葉を定義してくれたのは非常に面白かった。


ただ、汎用性を高めるためか、学術書を読んでいるような手堅さというか無難さが全説明に通底しています。

そしてP&G資生堂の経験からか例として出てくるのがConsumer向けマーケティング戦略の話ばかりでBtoBやWebビジネスの参考になる体験談はありませんでした。

P&G資生堂と言った誰もが知っているブランドが展開する戦略と無名のベンチャー企業の新規ビジネスで採用すべき戦略に共通する部分はおそらく極小です。それが「戦略というのは目的設定と資源配分をどう決めるか」ということなのですが、具体例に踏み込むと全然違う話になってしまうんでしょう。

大企業にいてすでに大きなビジネスをしていて、大きなお金を動かせる人のための戦略本です。

人文学が役に立つと応えない理由について

 

人文学は何の役に立つのか?という記事で内田先生が槍玉に上がっていました。

 

内田樹でググれば2ページ目くらいにこのブログの記事が出てくるほど、私は内田先生を尊敬しております。内田先生は議論を好まない方なので、ウチダ門下生として、意見を忖度して

 

 私がよくわからないのは、なぜ「自分のやっている学問はこれこれこういう風に役に立ちますよ」とか「人文学はこのような点で社会にとって有益ですよ」ということを素直に示さないのか、ということだ。

 

 

 

この問いに応えたいと思います。

 

 まず、「人文学が何かの役に立つ」ということ、いや言い換えると、「人文学が役に立つと主張すること」が一旦は可能であることは内田先生も、他の学者さんも重々分かっています。あの海外の記事の様に、奴隷解放にも差別撤廃にも一定の貢献をしたことは言おうと思えば言えます。

 

でも、彼らはそんなこと言っても仕方ないと分かっているから敢えて言わないのです。

 

一つ例を挙げます。131種類の蛙がストレスを感じた時に発する臭いを分類する学問があるとします。(というか実際にイグノーベル賞を取った研究です。)この学問は何の役に立っているのでしょうか。人権問題や死刑制度の深い洞察に貢献するような成果はないかもしれませんが、蛙専門の心療内科を開こうとしている人にとっては有用な研究かもしれませんし、自分の仕事が地味過ぎてやる気を失っている人に勇気を与える効果はあったかもしれません。もっとも意味のなさそうな研究でさえ、何かしかの役には立っていると言うことは出来るのです。何をするにしても完全に独立した学問は存在しません。発表し、誰かに認知されている時点でその学問は何かしかの影響を他者に与えているのでます。誰に伝わった時点で、自分以外の他者とコミュニケーションを取れた喜びを与えられたという点では役に立っています。

 

 

なので本当の問題はその先です。つまり「役に立った結果、何の役に立ったの?」という疑問です。

 

 

一度この質問に答えると永遠に質問が繰り返されるから人文学者は相手にしないのです。役に立つかどうかという審問の台に乗らされた時点でその問いは応えられなくなるまで続きます。絶対。

 

だって、審問者ははぐらかされたいんじゃなくて、「何の役に立つ」のかが聞きたいのでしょう?学問とは論理体系の蓄積です。空が青かったから、ではすみません。

 

紹介のあった海外のインタビュー記事。あれはただのはぐらかしです。ピーターシンガーの『動物の解放』によって菜食主義者が社会的に認められたことはわかりました。では、菜食主義者が社会的に認められるようになったことは何の役に立ったのでしょうか?

 

 

 

 

文学が道徳性を養ったとしましょう。その結果、奴隷制度がなくなったとしよう。やったー、文学が役に立ったー!でも、奴隷制度がなくなるっていうことって何の役に立っているのでしょうか?差別される側の不幸量が減ったのでしょうか?じゃあ、差別される人が減るってこと自体は何の役に立っているのでしょうか?差別される人が自由に生きていくことができたのでしょうか?じゃあ、その自由は何の役に立っているのでしょうか?

 

その人個人の幸福量が増えたということが成果でしょうか?なら差別する側の幸福量は減ったのではないでしょうか?たとえば安い値段で奴隷を労働者として扱えていたのに、奴隷制度廃止のせいで高いお金を出さないといけなくなったとか。それはその人にとって不要の(役に立たない)学問だったと言えるのでは?

 

社会全体の幸福量は増えた?なら社会全体の幸福量の総和の最大化が学問の目的?なら幸福量を最大化するためには1人の人間を地獄の苦しみの中におとしめることは役立つことなのでしょうか?

 

という風に最後は応えられない選択にいきつきます。絶対。

 

 

役に立つかどうかの基準が社会全体の幸福量の総和なのか、自分の幸福の最大化なのか、不幸量の最小化なのか、それは誰にも応えられません。役に立つかどうかは一般化できないと、内田先生がいうのはこういうことです。

 

最終効果が役に立っているかどうか判断出来るのは政府でも社会でも私でもありません。何の役に立つの?と問うているあなただけです。

 

 

真剣に学問をしている人に「何の役に立つの?」 と問うてくる人は家路を辿る真面目なサラリーマンに「ちょっと電車賃なくなっちゃってさー、金貸してくんね?」とニヤニヤしながら近づいてくるヤンキーに似ています。

 

 

その問いに対する正解は「どこで得た収入を何に使ったんだね?いくら必要で、いつまでに返し、利子は年利15%でもいいかな?」ではありません。

 

「ちょっとすいません、失礼します」か「そんなの知るかよ」 

です。

 

 

 

 帰りの電車賃は自分で工面するのが当たり前なくらい、学問が何の役に立つかどうかの審問は己自身でやるのが当たり前です。

 

それを他責的な言葉で訴えてくる子供のような大人に対して、「そんなの知るかよ」と応えたくなる学者たちの気持ちも分からないではありません。

 

人文学者たちが自分たちの学問が役に立つかどうか率直に応えない理由。

それは学者が応えても意味がないからです。