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「何もない」がある

音楽と本について書きます。日々考えたくだらないことも。

勉強の哲学 来たるべきバカのために 千葉雅也

読みやすくタメになる本です、

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

P20 勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。

ここが本書のポイントです。勉強とは必ずしもいい事だらけな訳ではなく、勉強することによって失うこともある。知らなきゃよかった、知らないまま死んだ方が幸せなことがあるものです。幸福とは閉鎖のことです。勉強とは自らを解放することです。


卑近な例で行くと、一番最初に大麻覚せい剤を服用した人は「とても幸せ」だったことでしょう。こんなに気分が良くなって、幸せな気持ちになれるのか、と。四六時中でもラリッているのが幸せだった。でも、それらが人体に与える影響を勉強した途端、そんなことが出来なくなります。「待てよ、このままラリってたら、やばい終末が待っているな」と気づいてしまう。それが勉強の「ノリの悪さ」です。周りは「こんなに楽しいものを何で受け入れないんだ」とノリの悪い人を排除しようとするでしょう。でも勉強してしまったら、元のノリには戻れない。


公害も同じかもしれません。有毒ガスを垂れ流しながら莫大な利益を出している会社に勤めているとして、「こんなに儲かるんだから、どんどんやろう、商売ってなんて楽しいんだ」と周りは浮かれている。でも有毒ガスが近隣住民や環境に与える影響を勉強した途端、「こんなことしてたらダメだ」と周りを止める「浮いた存在」になってしまう。


同様のことが会社行って家に帰る生活の中でも起こりうる。上司の悪口ばかり言っている同僚に対して「逆の立場に立ったらその言い分がはおかしいよね」と言ってしまったり、カラオケでオールしようと言う流れの中で「徹夜が労働生産性にどれだけ悪影響化分かってる?」と諭したりする。クリスマスを素直に祝えなくなったり、バレンタインデーを百貨店のマーケティング戦略に踊らされているだけと批判したりする。いわゆる、そういう「つまらない奴」になるのが勉強です。

P35 たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴは箱のなかになる」と、非現実的なことを言うことも出来る。「ここにはクジラがいる」ということさえ出来る。何でも「言えるには言える」わけです。中略、こうした言語の自由さにあらためて驚いてほしいのです。

これはウィトゲンシュタインの論理空間に対応する説明です。「私は深田恭子と付き合っている」と言えることの凄さ!現実に付き合うにはめちゃくちゃ大変です。出逢って、興味を持ってもらって、愛の告白をして、承諾を得なくてはならない。とても無理だ。現実にはありえない。現実に会えないことでも、言うことはさらっと出来る。論理空間としては「私は深田恭子と付き合える」のです。

P51 勉強をするさなかでは、言葉への違和感が、可能性の空間としての言語のヴァーチャル・リアリティを開くのです。

さきほど「論理空間」という言葉を使いました。使い慣れている人にとってはどうってことない言葉ですが、初めて聞いた人には違和感があることでしょう。論理と空間?どゆこと?例を聞いていくと「なるほど、言葉で表現できる、可能性の世界のことね」と理解に至る。その言葉が身体に馴染んできて、ようやく論理空間と現実という対比構造が浮き彫りになります。そこからさらに、論理空間の無限の可能性に驚き、現実が一つの選択肢として目の前に存在することに驚愕する。その体験が勉強なのです。

P53 一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、特定の環境のノリと癒着していない別の可能性を考えられるようになることである。

P57 深く勉強するとは言語偏重の人になることである。

まずは言語があり、そこから初めて現実以外の可能性に対して考えが広がる、という意味で、勉強とは言語偏重である、と言えるわけです。では、現実の可能性を広げるための言語とはどうやって生み出されるのかというのが、本書の肝となる議論です。千葉雅也はこう言います。


P64 ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。

アイロニーとは共通のノリを破壊する思考パターンです。例を言うと1年ほど前に話題になった壇密と久米博のやり取りが適格かもしれません。最近の若者の恋愛は食事に行っても、ラブホに行っても何でもかんでも男女で割り勘をするのが当たり前という話題の中で久米博が壇密に「僕と君がラブホに行ったらどっちが払う?」といやらしい顔して聞くわけです。ここでは男と女がホテル代をどっちが払うのか世代によって変わるのかな、それを確かめようか、という共通のノリがあるわけです。実際には久米博がそういうノリだった訳です。恋愛心理テクで言うとこういう質問をすると「そもそも一緒にラブホに行くか」という選択肢がすっ飛ばされて、「ラブホに行った後、どちらが支払いをするか」という興味に意向するので、ラブホに誘いやすくなる、みたいな効果があるらしいです。「朝一緒に起きたら、朝ごはんはパンかご飯どっち食べたい?」という質問も有効です。話がそれましたが、壇密はそんな久米博の邪な意図満載の質問に対して「文春が払うと思います」と応えた訳です。これがアイロニーです。「どっちが支払うのかな?」というノリに対して、「そもそもお前とラブホに行くということは誰かの差し金でしかありえず、その結果、お前は破滅するんだよ」と応えている訳です。こうなったら久米博のいやらしい意図も粉砕され、壇密と美味しい思いができるかもという想像も霧散し、世代間のホテル代の負担の傾向の話題も全て吹っ飛んでしまう。これがノリの悪さであり、勉強の効果なのです。ノリ的には「んも~、久米さんのエッチ!」や「久米さんが払ってくださいよー」で良かったわけです。でもノリをぶっ壊すアイロニーの方がこの場合は爽快でしたね。ある意味、勉強と言うのは現在の嫌な状況をぶっ壊す効果があると言えるのかも知れません。


つづいてはボケ=ユーモアです。これはノリを破壊するのではなく、ノリを足していく思考パターンと言えるかもしれません。ワイドナショーの松本の発言はいつもユーモアに満ちています。松本という人は常に違う見方を提供できる人だから面白いのですね。最近では、アキラ100%BPOから批判を受けているというニュース。他のコメンテーターは「出ちゃったら批判するべき」とか「そもそも面白くない」とか当たり前のことを言う訳です。そこで最後に松本が「絶対に出さないと言う芸なんだから、むしろ一番倫理観がある」と言ってのけました。これこそ発想の転換ですね。

私が一番笑ったのは自転車のサドルが昔は良く盗まれた、という話題の中で、「なんで盗むのかね」とか「別にお金にならないでしょ」とか発言が飛び交う中で、松本が放った一言。「そもそも世界にサドルが一個足りないんじゃないか」

これはサドルがないと困るという共通のノリは壊さずに「元々サドルが一個足りない世界で起こる現象」を想起させました。天才のそれですね。


では天才に近づくために、どうやって勉強すれば良いのかと言うと。

P185 勉強の足場とすべきは「専門書」です。

とあります。
専門書と言うのは数々の批判に耐え、長年読み継がれてきた文献を参照に厳密に書かれたものなので、足場としやすいのです。稲盛和夫が「努力が報われるのが宇宙の法則である」と言っている本は専門書ではありません。一般書と言います。このような本からは勇気をもらうことはありますが、正しさは稲盛和夫1人の経験からしか担保されていません。やはり専門書を読みなおそう、と私も決意しました。


勉強の効用を分かりやすく構造化してくれる良書です。この本は準専門書と一般書の間の様な位置付けなので、勉強の開始にはぴったりです。

次はウィトゲンシュタインを読む!!

意図がズレてる 経産省の次官・若手プロジェクトの報告書を読んで

経産省のこの報告書が話題になっているそうです。

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf


カチカチの経産省から「若手」が、しかも「抜本的な改革を」という文言が前面に出た資料が公になることがあるんですね。

国内外の社会構造の変化を把握するとともに、中長期的な政策の軸となる考え方を検討し、
世の中に広く問いかけることを目指すプロジェクト。


具体論がないとか、So what?とかいろいろな批判があるようですが、そもそもプロジェクトのコンセプトとして「広く問いかけること」自体を目的としているので、はてぶが2000以上ついた時点でこのプロジェクトは成功と言えます。


高齢者優遇の硬直化した制度を撤廃して、もっと個人が好きなことをやれるような制度に刷新しよう。そうすれば組織を全体が活性化するはず」というストーリーって経産省だけでなく、きっとあらゆる企業の若手の中で数年に一度は盛り上がる議題なんじゃないでしょうか。私のいる商社業界でもそうです。前いた重厚長大メーカーでもそうでした。「若手を集めて何かしよう」と若手の誰かが言うか、若手と話したがるおっさんが言い出す。私も過去2回そんな議論に参加した記憶があります。若手が議論して、実行するためにエスタブリッシュメントたちに上程する中で、反対意見に疲れ果て「もうどうでも良いか」となってくる。そこでおっさん達が「お前らも結婚して子供を産んで、生活していく中で、世の中変えようなんて思わなくなるよ」なんて諭されたりする。そういうもんです。プロジェクトなんて。


こういった議論は「ここが問題だ」、「ここをこうしたらもっと良くなるんじゃないか」と観念的なことを話しているうちは楽しいのです。だって観念的なことに反対意見なんて存在しないから。今回の経産省次官・若手プロジェクトで言うと「働ける高齢者は弱者と規定しないで働ける場を提供しよう。公でカバーできないところは民間の力を借りよう」と提言している点。これだけでは「うん、そうだね」としか言いようがありません。だって誰もが共感できる理想を語っているだけですもん。「みんなが幸せになろう」と言っているのに等しい。本当にやっかいなのは具体論に噛み砕いてからなのだ。


「弱者ではない高齢者をどう線引きするのか」とか「民間の財源をどうするんだ」とか「公に見捨てられた個人はどう生きれば良いのか」という問題は個別具体論であって、観念的な議論の場では表面化しません。でも、実際に行動に移す時はこの個別具体論が全てなのです。


「弱者ではない高齢者をこう規定します」と具体論を提示した途端、反対意見が100億個出てきます。例えば「65歳以上の全員に健康診断をして、線引きします」と言った日には「もともと高血圧体質で健康な人はどうするんだ」「メタボは弱者なのか」「病院までいけない人は自動的に弱者になるのか」「だったら誰も病院に行かないんじゃないのか」「健康診断の費用は結局若者が働いた税金から出すのか」「本人は健康で働きたいと言っているだけで、能力ないし体力ないから周りは迷惑だ、それでも雇わないといけないのか」「急に病気になったらどうやって弱者になるのか」「病気が治ったら弱者じゃなくなるのか」「毎年検査するのか」「健康で気力があるうちに一日中テレビをみたいんだ、放っておいてくれ」・・・・という風に。


個人的にはこの提言に対しては好感と怒り、二つの感情が沸きました。
好感をもったのは、資料が綺麗で色合いのセンスが良いところ。


でもやっぱり怒りが湧いてきました。提言するだけなら、どの企業の若手もやっています。何度も言うけど、問題はそこからです。実際にどう行動に移すかです。

みんなに共感してもらえる「共通の目標」を
政府が示すことは難しくなっている。

蛇口をひねれば水が出て、ボタンを押せば明かりが灯り、綺麗な靴で道を歩ける、だけで政府がやれる「共通の目標設定」なんて終わっているのです。それ以上の幸せは個人の問題に移行したんだよ。今さら何を言ってるんだ、経産省の若手達。


本当に何か変えたいなら、外に出て今ここであなたが行動に移すしかないよ。世の中を抜本的に変えるのはさすがに無理だけど。20代、30代のうちから何か一つに本気で取り組めば、一つくらい実現できるかもしれない。


経産省の若手諸君。「世の中に広く問いかけることを目指す」とかクソしょうもない目標を掲げてないで、本気で世の中を変えるために動こうよ。


俺も頑張るから。

SPRINT 最速仕事術 あらゆる仕事がうまくいく最も合理的な方法 

GRITと似た装丁で最近売れているビジネス本です。

 

 

SPRINT 最速仕事術――あらゆる仕事がうまくいく最も合理的な方法

SPRINT 最速仕事術――あらゆる仕事がうまくいく最も合理的な方法

 

 

スプリントとは、アイデアをプロトタイプのかまちに素早く落とし込み、顧客とテストすることで、平日の五日間で重要な問題に答えを出す手法のことです。

 

月曜日にビジネスフローをマッピングし、何が問題なのか定義する。

 

火曜日にソリューションを洗い出す。

 

水曜日に誰を採用するか決める。

 

木曜日にプロトタイプをつくる。

 

金曜日に顧客とテストし学習する。

 

以上のことを具体的な方法論でもって説明してくれるのが本書です。

 

月曜日の問題定義はとても重要。誰のどんなアクションが重要なのかを外すと成功も失敗も分からなくなるから。そこは丁寧に書かれていて良かったのですが、問題は次だ。

 

火曜日のソリューションを出すところ。本来はここが一番のポイントだと思うのです。しかし、本書では社内外のアイデアを拾ってくる、という風にさらっと書いてあるだけです。それが出来たら苦労しません。元々アイデアマンが複数人集まってるからできる芸当なのかもしれません。

 

全体を全てマネしてスプリント出来るかは疑問ですが、エッセンスは大変勉強になりました。ただし、「あらゆる仕事がうまくいく最も合理的な方法」を紹介する本ではないような気がします。「何かを大きく変化させたい事業」向けですね。

 

 

 

 

本が消えてから

元々このブログは読んだ本の内容を忘れないようにするために初めてものです。つまり、読書は私の生活の一部にある訳です。毎年50~60冊くらい本を読み、すごく面白かったと思える本とは年間に10~20冊出会えるものです。

結婚するまではつまらなかった本はすぐに売り、面白かった本は本棚に保管してあったのですが、結婚してから妻が本棚を家に置くことを強烈に拒否しました。収納、つまりクローゼット類が沢山があるのだから、そこにしまえば良い、というのです。

結婚当初、保管をするだけならそうだなと思い、その提案を受け入れました。私の愛書は学生時代から残っているものを含めると300冊以上ありましたが、それらは丁寧に段ボールに箱詰めされ、クローゼットに収まることになりました。


一方、本というのは「自分で何を求めているか分からない時に適切な言葉を投げてくれる」ところに価値があるのです。だって自分でその言葉がわかっているのなら、自分で思い出したり、書いたりすればいいんだから。私は本からの言葉の投げかけを期待して、本を保管し続けていた訳です。本棚に置いてある時は、それが適切に機能しました。何も考えたくない時には土屋賢二の本が私に「読んでみる?」と語りかけてくれるし、仕事でモヤモヤした時は楠木さんの本が「読みたいようにしてください」という目で見てくる。人生に悩んだ時は内田先生の本を適当に本棚から抜き出すと適切な言葉がページから浮き上がってきたりする。

でも、本がクローゼットの中の段ボールに収納されてしまうと、それがぱったりとなくなりました。本からの言葉の投げかけが聞こえなくなるのです。クローゼットを空けて、何列にもなっている段ボールから一冊一冊取り出していく作業の内に疲弊し、何を求めているのかが分からなくなる。どういう本が適切なのかなんとなくの検討は付いていても、段ボールのせいでそこにたどり着けない。


結局本を読み返すことがなくなり、去年の年末、私は本を捨てました。大量に捨てました。270冊くらい。


そして、最近心が弱った時、本に頼りたくなった時、からっぽの部屋を見て唖然とします。ここにはもう私を支えてくれる言葉は存在しない。どういう気持ちの時にどの辺の本を読めば良いのか、が分かる状態、というのは心の貯金の様なものだったと気づきました。


本棚を手放す。本を捨てる。とういことは今後の人生にもボディブローのようにジワジワ、マイナスの方向に効いてくるような気がします。妻とケンカしてでも本棚は手放すべきではなかった。


激しく後悔しています。

VRで世の中の全てが変わると思った

凄い時代になった。
iPhoneを触った時よりも衝撃的。
この興奮は中学時代に「オヤマ菊野助」をBookoffで買ってきた時以来だ。


そう。初めてVRを体験したのです。
これで。


巷で話題のVを体験したい。いきなり10000円を超えるグラスに手を出すのは怖い。秋葉原のVR体験店は連日数時間待ちと聞く。とりあえず、安いものから始めようと思い、友人と軽いノリで買ってみました。その足で公園に行き、DMMでセール中のVR動画をダウンロード。


グラスを装着して見えたのは桃源郷でした。


「うお!!!すげぇ!!もうマジじゃん。もうこれ、あれじゃん。モノホンやん!神!神!神!神!」


と叫びました。30歳の男二人がGW中、公園で、VRグラスをはめながら叫んでいました。





矢も楯もたまらず、二人は帰宅しました。早速5000円ほど動画を購入し、VR体験を追究しました。




いやぁ、本当に凄かった。
これは大変なことになる。世の中が変わる。マジで。



だって、数千円のグラスと、一本数百円の動画だけで、こんな体験が出来ちゃうんだから。もうリアルと変わらないよ。リアルより良いくらい。



我々男性は理想の女性とあんなことやこんなことをするために、スポーツに励み、勉強し、定職に就き、仕事で成果を出そうと頑張っている。でももうそんな時代は終わった。数千円あれば、理想の女性と、しかも複数の人と、あんなことやこんなことが出来てしまう。廊下に立たされて希崎ジェシカ先生の後ろ姿を眺めているだけで幸せだ。


もはや何も頑張る必要がない。大金はいらん。田舎で家賃2万円くらいのとこに棲みながらバイト生活でも満ち足りる。一人で満たされるんだから、結婚する必要もない。連絡先聞いて、それとなく食事に誘って、付き合って、話合わせて、とかそんなまどろっこしいことは全く要らない。再生ボタンですぐにインサート。ピロートークもいらない。VRはボタン一つですぐに目の前から消えてくれる。


こんな素晴らしいモノがあれば、もう人生、生まれただけで勝ち組。幸せ者だ。仕事を頑張る気もなくなった。だってVRで毎日、すんごいこと出来るもん。すんごいぞ、あれ。現代の「もしもボックス」や。金も要らん。結婚する必要もない。恋愛もなくなる。


そうなると恋愛の葛藤もなくなる。芸術も急激に衰退するだろう。男どもは仕事のやる気をなくし、あらゆる葛藤がなくなるので芸術も衰退する。この世はVRを中心に回っていくことになる。スマホも食べ物も読み物も全てVRにどう適合させるか、と言う形で進化していくような気がする。


美咲かんなと篠田ゆうとのアレとか凄い。なにこれ。もう毎日生きてるのが楽しいレベル。他に何も集中出来ないレベル。年収の30%はこれに費やして良いレベル。人生の最大出費ランキングは1位家、2位VR、3位保険に塗り替わるだろう。


残念なのは、このグラスを家に置いておくことは出来ないので、常に会社のカバンに入れて持ち運ばねばならない点だ。その点でも結婚とVRは相性が悪い。VRが新しい人間の性の形になる。結婚とか恋愛とかいうのは消えてなくなる。残念だけど、人類は恐ろしいものを生み出してしまったのだ。

GRIT やりぬく力

ビジネス本ランキングで長い間ランクインしている本です。

 

 

 

やりぬく力というのは造語で、成功するまで頑張れる力、という意味です。なので、やりぬく力が強い人ほど成功する、というのは同語反復しているのだから当たり前です。

 

毎日毎日努力したのに成功しなかった人にも焦点を当てないと本当に努力が成功に結びついたか比較出来ませんが、成功していない人というのはどこにいるのかも分からないので実験の対象にもなりません。

 

P72 才能✖️努力=スキル  スキル✖️努力=達成

 

 

何かを達成するのに才能はあるに越したことはないが、努力は二乗で効いてくるので、努力できる人が強い、というのがこの本の1番伝えたいテーマです。

 

P97 成功するには「やるべきこと」を絞り込むとともに、「やらないこと」を決める必要がある。

 

 

やりぬく力の定義からして、あれもこれも手を出すのは不可能です。人生で何かを達成すると言えるレベルになるためには何か一つに絞らないといけないのかもしれません。

 

 

P141 なにをするにしても、その人がどれくらい成功するかを左右する「決定投票」は、その人がその仕事を「どれだけ切望し、どれだけ強い情熱と興味をもっているにかかっている」のだ。

P147 「必死に努力する以前に、まずは楽しむことが大事」

 

 

好きでないと努力できないので、好きな方が絶対に強い。それは間違いない。

 

 

P366「やり抜く力」が強いということは、一歩ずつでも前に進むこと。

「やり抜く力」が強いということは、興味のある重要な目標に、粘り強く取り組むこと。

「やり抜く力」が強いということは、厳しい練習を毎日、何年間も続けること。

「やり抜く力」が強いということは、七回転んだら八回起き上がること。

 

 

成功するというのは大変なことだと改めて思う。この本で1番感銘を受けた文がこちら。

 

P368

書くことが大変なのは、

紙の上にさらされたおのれの惨めさ、情けなさを

直視しなければならないからだ

そして寝床にもぐる

 

翌朝、目が覚めると

あの惨めな情けない原稿を

手直しする

惨めで情けない状態から少しはマシになるまで

そしてまた寝床にもぐる

 

翌日も

もう少し手直しする

悪くないと思えるまで

そしてまた寝床にもぐる

 

さらにもういちど手直しする

それでどうにか人並みになる

そこでもういちどやってみる

運がよければ

うまくなるかもしれない

 

それをやり遂げたら

成功したってことなんだ

 

 

 

仕事も芸術も、一流になるのは本当に大変。頑張りましょう。

 

 

 

小倉優子が幸せになれなかった理由

新番組『良かれと思って』のゲストとし小倉優子が出演していました。

 

私のようなアラサー世代にとって、ゆうこりんというのは唯一無二の圧倒的アイドルとして強烈に記憶に残っています。

 

 

当時の小倉優子は本当にすごかった。顔はめちゃくちゃ可愛い。胸は大きくないけど手足は長くて、結構せめるグラビア水着もやってた。こりん星とかめちゃくちゃな設定でも許されるくらい圧倒的に可愛いかった。

 

 

グラビアをやらなくなってからあまりマジマジと小倉優子をみたことがなかったのですが、今回久しぶりにじっくり小倉優子を観察して思うことがありました。

 

 

たしかに顔は可愛い。昔の写真と比べると目が二倍くらい大きくなってるけど、やはりすごく魅力的な容姿だなと思う。誰がどう観ても芸能人!という感じ。こんな一般人いないもんね。

 

 

でも、やはり33歳、二人の子供を持つ母親です。さすがに目尻のシワも肌の劣化も隠せる限度があります。これからも容姿の魅力は減退していくのでしょう。

 

 

そしてキャラクター。これが問題。話が一ミリも面白くない。意外性もないし、論理性もないし、空気を読んでる感じもしない。若くて可愛いということだけでチヤホヤされていた時のゆうこりんそのままでした。チヤホヤされていた女の人が歳を取るというのは、こういうことかと思いました。

 

 

 

身体的には確実に33歳になっているけれども、中身は若くて可愛いお嬢様のままなのです。誰かが自分を受け止めてくれる、話を広げてくれる、気を使ってくれるという前提の世界観で生きているのです。

 

 

 

若くて可愛い時はそれでいいのです。ただいるだけでみんなの心のオアシスとなれる存在だったから。現にゆうこりんがいるだけで絵として成立していた時代があった。

 

 

 

でも、もうダメだ。世界は変わっていないが、自分は歳を取ったのだ。若くて可愛いからみんながお膳立てしてくれるという超絶ボーナスステージは終わってしまったのだ。これからは自分で話題を作って、周りを巻き込んで行かないと生きる道はない。

 

 

いや、ゆうこりんに限らず、全員そうなんだ。若いから許されてる特権期間というのがたしかにある。でも、それを過ぎた後、若者と同じように振舞っていたら、誰にも相手にされなくなる。だから、技術なり資格なり人脈なりをそれまでに身につけておかねばならない。

 

 

これは人生におけるオランダ病と言えるかもしれない。

 

 

若さと可愛さという天然資源が豊富にあり過ぎた故、勤勉、努力、気遣いを養う必要がなかった。しかるに若さと可愛さは必ず失われる。その時には何もない大人が出来上がる。

 

若くて可愛過ぎた故につまらない大人になり、結果、恋人や配偶者の愛情を受けられなくなって破局、というケースって、この世の中にかなりザラにあるんだと思う。

 

 

小倉優子は可愛過ぎた。なんの努力も必要ないほど可愛過ぎた。周りもそれを認めていた。それが彼女の不幸だった。彼女を不幸にした一因は小倉優子をありのままで崇拝していた私のようなファンである。

 

 

美人が幸せになるのは、本当は1番大変なのかも知れません。だから、佐々木希も数年後は、、、